今回は「うつ」によって人間性が深まること、
特に「優しさ」が深まることについてです。
うつ病に苦しんでいる間は、「自分は人生を無駄にしている」と苦しく思いがちですが、
違います。
私はうつを治した今、「うつになってよかったーー!!!」と心から思っています。
うつになることは、無駄ではないどころか人格形成のための大きな糧となるからです。
うつになって、思考に深みが増し、今までよくわからなかった他人の心理が理解できるようになりました。
おまけに自分の心を大切にすることの重要性に気づき、
うつになる前よりも幸せな日常を送ることができるようになりました。
そもそも、うつになる人は優しい人が多い
うつになる人は、元々「優しさ」という素質を持っていることが多いのではないかと思います。
というのも、
「うつ」の頃、私はうつ病の方々による様々なブログを読んでいました。
それらを読んで、「うつの人たちは優しい。」と感じたからです。
こんな優しい人たちがいるなら、世の中捨てたもんじゃないな、と目から鱗が落ちるほどに。
もちろん、文章の書き方というのは人それぞれ様々なのですが、
うつの人(またはうつ経験者)の書く文章には、優しさがにじみ出ます。
優しい人のほうが「うつ」になりやすい、というのはあると思います。
他人の悲しみも自分で背負おうとしてしまったり、
困っている人々のために自分を犠牲にして行動したり。
逆に、自分勝手でいい加減で後先考えず無責任な人は、うつ病になりにくいです。
私は、「うつ」とは「優しさという病」だと言える側面があると考えています。
うつになると、遠くにいる悲しむ人々の声が聞こえることがあります。
幻聴というほどはっきりしたものではありません。
でも、どこかで発せられている嘆きの声たちが、不思議と聞こえてくる気がするのです。
特に、災害が起きたり、悲しいニュースを見聞きしたあとなどは顕著です。
時々音楽を聴いていると、「この歌詞を書いた人にはそういう“声”が聴こえてたんだろうな」という曲を見つけることがあります。
ただならぬ精神状態で書いたんだろうな、ということが察せられます。
アーティストが心を病みやすいのは、彼らが優しすぎるからなのではないかなと思います。
優しいせいで心を病む。
優しい人々にしてみたら、この世には耐え難いような悲惨な出来事が多すぎます。
そういう悪い面にばかり目を向けてしまうと、
人間とはこんな悲しい世界を作る生き物なのかと、人間社会で生きるのが嫌になってきます。
そしてある日、自分自身もその汚く卑しい「人間」であるという事実に直面します。
「自分だけは違う」とどこかで思っていた理想とその現実とのギャップに苦しめられ、
自分が人間であることを受け入れられずに、
人間社会で生きることを放棄してしまいたくなるのです。
うつになる人は理想が高く、「良き人」「清廉潔白」であろうとすることがあります。
突き詰めると、彼らの理想は「聖人君子」であることです。
しかし、彼らとて人間です。
どこかで「自分も、周りのあらゆる人たちと同じ“人間”なのだ」ということを受け入れないと、
自分の中の「人間くささ」に耐えきれず、自己評価をすごく下げてしまいます。
「自分はろくでなし、人間失格だ」と。
それでも、「うつ」になった人は、根っこでは「人が好き」です。
「人間性」というものに絶望していても、
どこかでその「人間くささから逃れられない人間たちを(自分も含めて)救いたい」という思いがあります。
心の底では「性善説」を願っているようなところもあります。
だから、根が優しい彼らが生きづらいのは当然です。
生きやすくなるには、物事を悲観的な視点からばかり見ないで、バランスを持った見方を身につけるほかありません。
「うつ」を経験すると、優しさに深みが増す
「うつ」になると、他人の悲しみが自分にうつりやすくなります。
そして、あらゆる悲しみを吸収できるようになった「うつ」のときの心は、深みを増していきます。
それこそ底なしのように。
そして「うつ」が悪化すると、心はその深みにどんどん落ちていき、出口を見失います。
しかし幸いにも、「うつ」は治ります。
うつが治っても、そのときにできた「深み」は決して消えることはなく、
「他人の苦しみを受け入れる器」として、人間社会で生きていくうえでの機能を果たします。
「他人の苦しみを受け入れる」とは、
「共感」とか「同情」とか「理解してあげること」とは少し違い、
他人の苦しみについて、「そういうのもあるんだな」と腑に落ちる、という感覚です。
「そういう苦しみがあるのだな」と、すとんと受け入れられる、という感じです。
例えば、私の体験談。
子供の頃は、今となっては「どうでもいい」と思えるような悩みで頭がいっぱいでした。
大きな悩みの種の一つは「持ち物」。
私は、「皆と一緒じゃないといけない」という意識が強い子でした。
「皆と違う」と周りから見られてしまうと、バカにされたりいじめられたりすると思っていたのです。(そして学校というのは実際にそういう場です)
よく覚えているのが、水筒と縄跳び。
私は水をよく飲まないとすぐに喉が渇く体質で、大きめの水筒じゃないと水分が足りなくなりました。特に夏。
でも、当時は子供向けのかわいいデザインの水筒は小さいサイズしか売っていなくて、仕方なく家にある大きな黒っぽい水筒を持っていっていました。
皆はピンクや水色など、可愛い水筒を持っているのに、自分だけこんな無骨な水筒…。
と、当時は嫌で嫌で、皆から隠れるようにして水分補給していました。
高学年のときに、大きくて、かつおしゃれ?な水色の水筒を店で見つけて買ってもらい、その嬉しさときたら。
それからは堂々と皆の前でお茶を飲むことができました。
なわとびも同じような話で、
皆がピンクや黄色などの可愛い色の縄跳びを持ってきているのに、私は「緑色」だったんです。
それが嫌で嫌で、校庭で遊ぶのも嫌々でした。
こんな些細なことが、当時は本気で苦痛だったのです。
こういう、その人特有の心の苦しみを、
「そんな大げさな」
「そんなことどうでもいいじゃないか」
と自分のものさしで価値判断するのではなく、
「そういう苦しみもあるんだなぁ」と受け入れることが心の器です。
今回の例でいうと、
「じゃあ大きくて可愛い水筒を探そう!」と、見つかるまで一緒に店を探し続けてくれた母は、その心の器の持ち主ということになるでしょうか。
「うつ」経験者は、
「自分の苦しみはきっと誰にも理解されない」という孤独感・虚しさに嫌というほど浸ってきています。
「死」しか逃げ道のないような、あんな孤独感は、誰にも経験してほしくないと思っています。
だから、他者の心の苦痛を受け入れる重みが違ってきます。
少なくとも、「うつ」経験者なら
誰かに「最近朝起きづらくてさ…」と相談されたときに、
「気合の問題だ」
「そんなのはお前の甘えだ!」
と返すことはしないでしょう。
うつ病の経験は無駄にはならず、すべて心の器・優しさの糧となる
「うつ」に苦しんでいる最中は、
「貴重な人生の時間を浪費してしまっている」と思えて苦しくなることもあります。
しかし、うつの時間は浪費ではありません。
「経験値ゲット」の時間です。
その経験値が、真の優しさを実行する行動力を生み出します。
ある意味、うつのときの絶望感が深かった人ほど
「経験値」は大きくなります。
かと言って、絶望感を感じることを勧めるわけではありませんが。
私は、20代前半という、女性としても「一番いいとき」とされるような時期を、「うつ」とともに過ごしました。
毎朝顔を洗う気力もなく、ナメクジのように地べたを這う生活です。
「私は最も輝かしいはずの人生の貴重な時期を無駄にしている」と思えて仕方がなく、
他の皆が今頃人生を謳歌していると思うと、いつも激しい胸の痛みに襲われました。
しかし今の私からすれば、「うつ」の経験は
かけがえのない「ギフト」であり、「戦利品」です。
だから、過去を振り返っても心が痛むことはありません。
むしろ、もう一度人生をやり直せるとしても「うつ」になる人生を選ぶと思います。
うつの経験者は、
「絶望すること」がどういうことかを知っています。
そして、うつから回復した人は
「絶望から這い上がることができる」ことを知っています。
これは一種の「無敵感」「無双感」を生み出します。
「何があっても再起できる」という自信がつくのです。
この自信は、自分が本当にやりたいこと・生きたい道を進む力をくれます。
元来優しい人ならば、その優しさをもとに実行する力。
私は「行動で示す優しさ」こそ真の優しさだと思っています。
このどうしようもない世界で、苦しむ人々とともに嘆くだけでなく、
人々を苦しみから救いたい。
「うつ」は優しさという病。
うつを乗り越えたとき、「うつになったことは無駄ではなかった」と知ることができます。
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