自分を責め過ぎず他人のせいにする他責力・他人に怒る力も必要

最近、必要以上に「自責」に浸ることが少なくなってきた。

 

他人に理不尽な態度を取られたときに、

「理不尽だ!」とちゃんと「怒り」が湧くようになっている。

 

今までなら「私が悪かったのかも」と思って萎縮してしまっていたところだ。

 

 

これは、自己肯定感が健全に高まっていることの表れだと思う。

 

 

いつも自責的になるよりも、妥当に怒れる方が幸福度は高いと実感する。

負の感情を溜め込まず、その都度発散できるからだ。

 

 

しかし、このまま自己肯定感を”高めすぎる”ことは危険だと思っている。

「自分が常に一番正しい」と考えるようになってしまうかもしれないからだ。

そうやって「他人のせい」ばかりにする人間にはなりたくない。

だから、気を付けないといけない。

 

 

 

 

それにしても、うつ病になる前の、自己肯定感が低く、自分に自信がなかった頃は酷かった。

心身が休まることなどなかった。

 

 

あの人がイライラしているのは私のせい。

あの人が何だか冷たいのは私のせい。

 

何故だか理由はわからなけど、私が悪いんだろう。

私が何かしてしまったんだろう。

何だか分からないけど。

 

 

そうやって萎縮して、

かといって「私が何かした?」と問いただす勇気もなく、

何も言えず、何もできず、怯えて空気のように縮こまっていることしかできなかった。

 

そんな私に、かえって苛立つ人は多くいただろう。

 

 

 

今でも、まだメンタルは弱い方なのだけれど、

怯えて暮らすことはなくなった。

 

そもそも交友関係がほとんど無いので、「理不尽な態度を取られること」自体が減ったというのもある。

 

 

 

しかも今は外出自粛中で、接する人と言えば同居中の彼しかいない。

彼との間には、たまに意思の疎通のすれ違いがあったときに

怒り」を感じ、それを冷静に言葉で伝えることができる。

 

「イライラしてる?」とか、

「私が今こういう行動をしたから?」

と、こちらから問うと、イライラしている側も冷静になる。

 

「いや、ちょっと言い方がきつくなっちゃったけど、怒ってないよ」

「俺の伝え方が悪かっただけで、○○は悪くないよ」

と、その場で不穏な空気は解決することが多い。

 

 

このように、

「他人の不快な言動を我慢しなくて良い」と知ったことは、

私の中で大きなことだった。

 

 

 

 

それでも、過去に発散できなかった「怒り」は私の中にくすぶっているらしい。

 

 

夜中に時々、夢の中で「怒り」が爆発することがある。

言葉も出てこないくらいの激しい怒りだ。

 

怒りのあまり、私はつんざくような喚き声をあげる。

隣で寝ている人が飛び起きるほどの、はた迷惑な大声で。

そして、その怒号で自分も目が覚めるのだ。

 

そういう「怒り」を催させる夢の内容は、

幼少期から中学生くらいの記憶が基になっている。

 

実際にあったことではないのだが、

家族や親類に、私という存在を軽んじられたり、誰かと比較して貶められたりといった内容の夢だ。

 

 

 

うつ病が治ってストレスフリーで過ごせるようになってからは、こういう夢は見なくなると思っていたのに、

まだ時々見てしまう。

 

そういうとき、「まだ私には”蓋”をしている怒りが残っているのだろうか」と不安になる。

 

 

 

負の感情は、できれば膿む前に現実世界でちゃんと整理しておくのが良い。

 

「私はあなたのこういう態度を受けて、こういう気持ちになりました。」

その場でそう伝えるだけで良いのだ。

 

 

もし私が小学生のあの時、あの子にちゃんとそう伝えていれば、

あの理不尽な態度の理由が分かったのかもしれない。

今となっては遅いけれど。

 

 

 

自分が「自責」的な人間か、「怒り(他責)」に向かう人間かは、

例えば、道を歩いていて他人と肩がぶつかったときに分かりやすい。

 

「相手のせい」と思って怒りが湧くか、

「自分のせい」と思って「すみません」となるか、どちらだろうか。

 

 

私は基本的に”自分はどんくさい”と思っているので、「すみません…」となる側なのだが、

一緒に歩いていた友人などが「今のはあっちがぶつかってきたよね!」と怒ってくれることがある。

 

どっちが良いというのは無いが、そういう時は「私もまだまだだな」と思ってしまう。

 

 

 

咄嗟の出来事で「他人に対して怒ることができる人」を、私はちょっと尊敬する。

「そっちが悪いですよね」と即座に言える判断力と自信がうらやましいのだ。

 

 

 

度を過ぎた自責は、単なる無責任になってしまう。

「何が悪いか本当は理解していないから」だ。

 

「とりあえず私が悪いんだろうから謝っておこう」

というのでは、状況は何も変わらない。

 

 

 

だから仕事では、責任を重んじて、「自責」に寄りがちな性格を少し引っ込める。

「何に謝っているか分かっていないのにとりあえず謝る」ことはしないようにしている。

 

クレームが来たところで、こちらに完全に非があるかどうかは分からない。

「とりあえず謝っている感」が伝わって、

「何が問題か分かってないだろう!」と、火に油を注ぐ状態になりかねない。

 

まずは、とりあえず相手は怒っている(困っている)ので、

「不便な思い・不快な思いをさせていること」に対してだけ謝罪する。

こちらの対応に非があったかどうかは、話を聞くまで分からない。

 

 

 

 

プライベートでも同じことだ。

 

「怒ってるの?私が悪いことした?ごめんね」

では、相手に「何も分かっていない」という印象を与える。

 

「いや、怒ってないよ」

とむすっとした態度で言われておしまい。何も解決しない。

 

 

 

大体、理不尽な態度を取るときというのは、心に余裕がない。

相手の心境を思いやる余裕がない状態だ。

 

だから、不快な態度を取られたことに対して、きちんと怒ること。

人間として、それは大切な感情だ。

 

「あなたの不快な態度のせいで私は嫌な気持ちになっています」

と伝えてあげるべきなのだ。

 

 

 

人のせいにすることが「悪いこと」だと取り沙汰されやすい。

 

だから、心がまっすぐな人ほど「自分のせい」にしてしまいがち。

でも、「自分のせい」にし過ぎると生きづらい。

 

自責が行き過ぎると、私みたいにうつ病になって、

「何もかも私のせい。私なんていない方がまし。だから死にます」という症状まで悪化しかねない。

 

 

 

「怒る力」「”他人のせい”にする力」をつけよう。

そんなこと、誰も教えてくれないけれど。

 

 


 

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生きづらさの解消方法・幸せに生きる考え方・うつ病の治し方をお伝えしています。
過去にうつ病になり、考え方を変えることで完治させた経験あり。

典型的なINFP人間。
モットーは「自分の幸せを第一に生きる」。
現在会社員をやりながらADHDの夫と暮らしています。

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