「他人に対して抱く不快感・嫌悪感」というのは、
少なければ少ないほど幸せでいられる。
その理由は、当然、日常生活で「不快」な思いをする時間が減るからだ。
でももう一つ理由があって、
「自分がその他人と同じ状況に陥ったときに、自己嫌悪に走らないで済むから」
というのが結構大事。
何があっても幸せに生きていける力というのは、すなわち、「あらゆる人を許容する力」なのかもしれない。
「あんなやつと同じ状況に俺が陥るわけがない」
「俺があんなやつみたいになるはずがない」
と思っていると、人生いつか足をすくわれる。
ここで、私が不快に思う他人について考えたいと思う。
そうですね。
まず電車で音を立てながらガムを噛んでる人。
そばにいると不快感に耐えられなくなるので、私は速やかにその場を離れる。またはイヤホンを付ける。
悪臭を放つ人。
これもその場を離れればいい話。
まぁ、電車でガムを噛まなければいけない状況に陥ることはないかもしれないけど、
悪臭を放つような病気にかかったり、ホームレスになってお風呂に入れなくなることはあるかもしれない。
自分が「悪臭を放つ人間」になってしまったとき、私は自分自身を許容できるのだろうか?
死にたくならないだろうか?
他人に対する嫌悪感は、いつか自分に跳ね返ってくる可能性があるのだ。
逆に、あらゆる他人を受け入れられる器のある人は、何があっても傷つかない強さがあると思う。
他人を理解はできなくとも「他人と自分は違う」と知っているだけでいい
他人を許す、心の器を広げるには、
「想像力」が要る。
自分が知らない苦しみがあること。
自分が知らない価値があること。
他人のことを理解し尽くすことは多分出来ない。
それならば、
「他人は、自分が理解できない世界に生きているんだ」
と分かっているだけでも十分だと思う。
今の自分の常識ですべてを判断しない。
他人をジャッジしてる自分に気づいたら、「あ、今の私は自分のモノサシで見ているな」と自覚するように心がけたい。
私は以前、アルコール中毒やニコチン中毒になる人をどこか軽蔑しているところがあった。
自制心に欠けた人たちなんだなー、と。
でも、うつになると、通販で大量の強いお酒を買い込んで毎晩飲むようになった。
その頃は作詞作曲などの創作に明け暮れていて、
酔っている状態だからこそ(?)すらすらと作れた曲もある。
だから、あの頃の自分を否定する気はない。
アル中に陥ってるときって、自制心云々というよりも、それがアイデンティティの一部みたいになってしまう。
飲むというスタイルが“私”なんだ、と。
人間は、慣れ親しんだ今の自分を変えることを恐れる生き物だ。そう簡単に変えられはしない。
今では、「アル中になるような奴は馬鹿だ」なんて絶対に言えない。
「この人の生活はそういうスタイルなんだな」という認識をするようになった。
今でも、自分のものさしを外して外界を見る練習をしている。
そうして、徐々に何でも許せるようになっていく。
うつになる前の自分なら、そんなゆるゆるな見方は軽蔑しただろう。
人間、一分一秒も気を抜かず目標に向かって精進し続けることこそ最高の美徳、と思っていたのだから。
何も考えず努力もしてないやつはクズ、って。
そんな女、一緒にいて気が休まらない。
あの頃の自分のままだったら、一生結婚できなかったように思う。今もしてないけど。
でもまだ自分に許せないことは色々あって、
何かポカをやらかしたりすると必要以上に落ち込んでしまう。
もっと自分のだめな部分も含めて愛せるようになったら生きやすくなるんだけどね。
色々間違えたり遠回りしたりしながら生きていくんです。
誰も彼も。これからも。
それが人間。
人間であることを、許していこう。
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