カチカチカチカチうるさいんだよ。カスタネットか。
という話。
価値があるものがなんぼのもんじゃい
最近、「価値があること」に執着しすぎていたかなと思っています。
「価値があるもの」を見ること。知ること。作ること。
そんなことを追い求めていました。
そしてそれに疲れてきました。
ふと考えたのです。
「価値」があるものって、本当に価値があるものなのか?
価値とは何か、と考え出すと、そのあやふやさに気がついてきます。
価値のゲシュタルト崩壊。
「カチガアルモノ」って何だっけ。
この言葉は何を意味するんだっけ。
大勢の人が求めるものほど価値があるもの?
それとも自分の直感が「これだ!」と告げるもの?
価値観というのは風のように移り変わる。
どうして支持されているのかわからないものが流行ったりする。風潮と同義なんじゃないか。
自分の価値観だって、ふらふらと揺れ動く。
泣くほど幸せだと感じて受け取っていたものが、次の瞬間には憂うつの源になったりする。
人間にわかるのは、価値ではなく「快」だけである
結局は人間の知覚には「快」か「不快」かしかなくて、
人間が(一時的にでも、結果的にでも)「快」と知覚するものに人は気まぐれに「カチガアルモノ」と名前をつけたりするんだろう。
名前をつけた本人は、己の確固たる価値観に従ったと思っているかもしれないけど。
だとしたら、価値があるものを追い求めることは、人間の気まぐれを追い求めることになる。
そりゃ疲れるわな。
なんで価値があることを追求してたかというと、
「稼ぎたい」という気持ちがあったからです。
稼ぐには、価値があるものを提供しないといけない。
何で稼ぐとは決めてないけど、何か提供したい。
じゃあこのブログで書いてみよう。
でも、「カチガアルモノ」を書こうとすると、全然「快」じゃないんです。
それで筆が(指が?)とまりました。
人に物事を嫌いにさせるのに確実なやり方は、「義務感」を与えることです。
〜しなきゃ。
っていう。
「うつ」を克服する中で、あらゆる義務感を取っ払って幸福感に満ちていったのに、
また逆戻りしようとしていた。
別の義務感を身にまとおうとしていた。私としたことが。
だから、好きなように、自分が「快」を感じるようにする(書く)ことにしました。
稼ぎたかった理由は、
「将来もし子供を持ったら」と考えたからです。
もしも。子供を生む未来が来たら、子供には不自由させたくないなぁ。
やりたいことを何でもさせてあげたいなぁ、と。
それがほぼ唯一の稼ぎたい理由です。
でも結局は、これは大したモチベーションにはならなかったわけです。何とも芯のない考え。
でもね、「やらなきゃいけないこと」をして色んなものを「価値あるもの化」して稼ぐことが得意な人もいるのです。
目的のためにとても合理的になれる人。
報酬が強いモチベーションになる人。
私には逆立ちしてもできません。
「快」と「不快」だけで判断して、感性だけで生きている私にはとても。
何がカチノアルモノかなんて分からないですが、
お金の価値は今のところ信頼しています。
お金に変わるものがカチガアルモノ。
人々にとって都合がよく見えるものは、お金を払ってもらいやすい。
でも私は、お金がない人にも提供していきたい。
うつになる人の中で一番苦しいのは経済的に困窮している状態の人に多いと思うから。
お金がないと、何とかしなきゃという思いを拭えないから。
もう駄目だと絶望に至りやすいから。
その点、ブログはただで読めるから良い。
家に引きこもっていても読めるし、いつ読むのをやめてもいい。
という(読む人にとっての)都合の良さがあって、ブログを書くことを選んでいます。
こう考えると、ブログを書くこと自体が何かしら価値のあることなんじゃないかと思います。
どんな零細ブログでも、そのたった一文の言葉が絶望している誰か一人に刺さり、その一人が自殺から救われることになるなら、
それってすごく価値があることじゃありません?(結局価値を求めているの図)
こちらも:
ブログとは泥臭い真剣な遊びだ。キラキラした世界を目的にしてはいけない。