生きる目的がなくて虚しい
何のために生きてるんだろう。と悩んだとき。
毎日が空虚で張り合いがない。
どこにいても何をしていても虚しくて、どこか寂しい。
そんなときの解決策。
生きる目的は探さなくていい!
自分の人生の目的を探しているのなら、別のことをしたほうがいい。
生きる目的を見つけようとしたって幸せになれるわけではない。
それはなぜか?
①本当は生きる目的ではなく、日々の充実感がほしいだけだから
そもそも、問題の本質を見よう。
あなたは「生きる目的がなくて虚しい」と思っていたとする。
その時の一番の問題は、「虚しい」ことである。
「生きる目的がないこと」ではない。
ただ日々の暮らしに充実感がほしいだけ。
生きてて楽しいと思いたい。
生きている喜びで心を満たしたい。
充実感を得るためだけだったら、「生きる目的」は別に必要ない。
生きる目的がないと満たされない、というのは思い込みである。
別に目的意識なんかなくても、人生は飽きる暇もないほど充実させられるのだ。
②生きる目的は、充実感とは何の関係もないから
「何か生きる目的を持たなきゃ」と思ったときは、本当にそうなのか?と疑え。
なんで持たなきゃいけないの?
生きる目的がある人は偉いの?凄いの?幸せなの?
そもそも、生きる目的があれば虚しくならずに幸せに生きられるの?
そうじゃない。
生きる目的があるということは、「やることが一つのことに偏るだけ」だ。
100のことをバランス良くやるか、ひとつのことだけに注力するか、の違いだけである。
ひとつの生きる目的に向かって活躍している人は、別にすごいわけでも、人として秀でているわけでもない。
ただひとつの能力に特化していて、他の能力に欠けているだけである。
逆に取り立てて目的もなく平穏に生きている人というのは、色々なことへの能力がバランスよくあるというだ。
全ては意識の配分の問題で、どっちの方が良いとか充実してるとかは一切関係ない。
別にどっちでも人生を充実させることはできるし、同じくらい人に役立つこともできる。
私は、ひとつの目的や目標に熱中していた頃よりも、特に目的意識のない今のほうが何万倍も幸せだ。
今が一番充実感、充足感がある。
「すべてに事足りている」とさえ思える。
要は人生に目的があろうがなかろうが、充実度や幸福度は左右されない。
だとしたら、生きる目的を見つけなきゃ!などと思わなくていい。
たった1つの目的にすがり、1つの生きがいで自尊心を保ち、生きる目的がなくなればふぬけてしまうくらいなら。
自分の生きる喜びを「生きる目的」などというわずか一本の柱に依存してどうする。
それよりも、1000000本の小さな柱を立てた方がよっぽど簡単だし有意義だ。
小さくても柱の数がそれだけあれば、人生がどこにどう転がろうが幸福度は大きく揺るがなくなる。
③生きる目的は探せば見つかるものではなく自然と「芽生える」ものだから
それに、「生きる目的」というのは探したからといって見つかるものではない。
特に、今が空虚だと感じているうちは生きる目的は見つかりにくいだろう。
なぜなら、虚しい時は目的意識を芽生えさせるだけの心のエネルギーがないからである。
燃料の無い所にいくらマッチを近付けても燃え上がらせることはできないのだ。
問題というのは、問題視しなくなった頃に自然と解決するものである。
つまり、「生きる目的なんかなくても充実してるわー!」という境地になった時に初めて、生きる目的を見いだせるようになる。
「生きる目的などなくても問題無い」という境地に達したときというのは、心の感度が高まっているので、依然と同じような出来事に遭遇しても、受け取り方が異なってくるのだ。
そうして、あらゆる出来事に自分なりの意味づけをすることができるようになる。
そして、ある日心に火が灯る。
「私はこれをしなくちゃならない。いや、絶対にやってみせたい。」と。
それは自然発生するもので、意識的に芽生えさせられるものではないのだ。
頭で考えてもどうしようもないものなのだ。
「これが私の抱く使命なんだ」
「何故か、私はこれをやらなければならないと強烈に感じる」
といった、「何もしなくても自然と沸き起こってくる衝動」が、生きる目的と言えるものなのである。
そんな、いつ発生するか予想もできない情熱を無理やり探そうと思うだけ無駄なことである。
生きる目的なんかなくても充実感を得る方法
「人生を充実させるには、生きる目的を持つべきだ!」などという「常識」的な価値観に染まるな。
生きる喜び、幸福の手に入れ方など無限にあるのだから。
「生きる目的を持って生きる」というたった一種類の喜びしか知らない他人の声など、話半分に聞いておけばいい。
①生きる目的を100に分散する
生きる目的が欲しいという人は、「たったひとつの大切な目的」、つまり一本の支柱が欲しいのだろう。
しかし、さっきも言ったように、一本の柱は脆い。それに見つけるのも簡単ではない。
そもそも、生きる目的を一つしか持ってはいけないなんて誰が言った?
一つに限定しなくてもいいではないか。
日常で小さな充足感を得られることを全部「生きる目的」にしてしまえばいいのだ。
例えば私にとっての生きる目的は、以下のような感じだ。(長いので読み飛ばしてください)
・朝ごはんを食べているときは、朝ごはんを食べるため
・コーヒーを飲むときは、コーヒーを飲むために生きている
・仕事中は、仕事のために生きている
・熱帯魚の水槽を眺めるために生きる
・金曜日の晩酌のために生きる
・Amazonプライムで動画を見るために生きる
・晩御飯のあとに食べるアイスクリームのために生きる
・お風呂上がりにバニラの香りのボディクリームを塗るために生きる
・土曜のうちに洗濯や掃除を終わらせるスッキリ感のために生きる
・雨の日にお気に入りのレインコートを着るために生きる
・電子ピアノに爆音ヘッドホンで一人リサイタルをするために生きる
・毎晩寝るときの布団の心地よい感覚のために生きる
・好きなアーティストの新アルバム発売日を楽しみに生きる
・YouTubeで好きな投稿者の動画を見るために生きる
・ぐでーんとソファでだらしない姿勢でブログを書くために生きる(今)
・その辺の植木や花を眺めるために生きる
・・・
もういいか。
生きる目的は、その時々で色々あっていい。
仕事中は仕事に生きるだし、家事をするときは家事のために、遊ぶときは遊ぶために、休むときは休むために生きる。
②生活習慣を美しくする
一日を、朝起きて布団を整えることから始める。
朝起きる時間の8時間前に就寝する。
余裕を持った時間に起床する。
洗濯槽がいっぱいになる前に洗濯する。
運動がてら徒歩移動を増やす。
栄養バランスを考えて自炊する。
週末でも飲酒は控えめにする。
自分が自分という貴族のお付きになった気分で、自分の生活を整えてやる。
自分を慈しむ。大切に扱う。
空虚な気持ちのときは、刺激を求めるのではなく、普段の生活を正す必要がある。
なぜなら、空虚さを埋めるために旅行や買い物での散財、パーっと飲みに行くなどしたところで、
一時的に刺激を得られても、日常に戻ってきたらまた元の日常に戻ってしまうからだ。
そしてまた空虚な毎日の繰り返し。
虚しい、というのは、日常に飽きたということである。
飽きた、退屈、変化がない。
そういうときは、一時しのぎの楽しさを求めても本質的な解決にはならない。むしろ日常の虚しさを際立たせてしまう。
生活の細々としたす所作のすべてが自分の精神状態を作るのだ。
丁寧な生活へと改善するだけで、メンタル状態は著しく向上する。
生きる目的などなくても、生活を送ること自体が喜びになってゆく。
「自分は丁寧な生活をしている。」
という自覚が、人を内面から磨き、心を洗い、改善すべき本質的な問題を明らかにする。
そして、その心の余裕が人を優しく、美しくする。
自分を慈しむというのは、自分を愛することに繋がる。
それは自分のメンタルを整える一番の近道となる。→自分を愛することに目覚めて幸福度がカンストした話
私は、美しい生活を心がけているときは退屈する暇がない。
虚しい気持ちに陥るのは、大抵やるべきことをやらずにソファでだらしなくごろごろ転がっているときだ。
③ちょっとでもやりたいことは、ちょっとでいいからやってみる
人間、生きる目的がないときは、何もしないための言い訳が上手い。
やってもどうせ上手くできないし。
どうせすぐに飽きるし。
思い通りにならなかったら嫌だし。
…しかし、何かを始めるなら、むしろ下手くそなことの方が良い。なぜなら成長の余地があるから。
うまくできると分かっていることを反復しても別に面白くはないだろう。
下手くそから始めたものでも、「好き」だと感じたことは自然と続いていく。
そして少しずつでも上達―つまり成長していく。
何かを一歩始めること。
筋トレでも、チラシの裏に4コマ漫画を描くことでも、観葉植物を買ってくることでもいい。
料理でもいい。散歩でもいい。些細なことでいい。
やりたいことがないときは、自分の本心が迷子になっているときである。
そういうときは、まず他人の声を遮断することだ。SNSを見るのをやめ、友達付き合いを控え、人に会いに行くのをやめる。
そして美しい生活習慣をしばらく続け、自分の心を見つめ続ければ、自然とやりたいことが生まれる。
100種類のことにチャレンジしてみて、すべて三日坊主に終わってもいい。
行動した分だけ、「達成した」「学びを得た」「自分の今の力を見定められた」という充足感に繋がる。
(ここまでしかできなかった、と挫折するのも立派な学びである。今の自分の限界を知ることは、これからの行動を選択する材料になる。)
とりあえずやり始めさえすれば、
どうすればいいのだろう?どうすればもっとよくできるだろう?と考えざるを得なくなる。
飽きる暇などない。空虚さを感じる暇もない。
※物事を「ちょっとだけ」始めてみる、というのが苦手な人は、きっと完璧主義すぎるので、まずはそこを治した方が良い。→完璧主義すぎてうつ病にまでなった私が完璧主義を治した方法
空虚というのは、何をするのにも飽きてしまった状態だ。
飽きるということは、学び・成長の喜びを忘れてしまうことである。
つまり、絶対に飽きないことというのは、何かを学び取り続けることなのだ。
行動を通して何かを学び、成長を続ける限り、人の心は楽しさや喜びを忘れることはない。
何をやればいいか分からない、と言う人は以下の記事に大きなヒントがある。
→最高の趣味を探すには「この世に足りないと思うもの」「自分の方がうまくできると思うもの」から探せ
まとめ
「これだ!」という一つの生きる目的なんかなくたっていい。
それはなぜか?
・問題の本質は生きる目的がないことではなく、日々の充実感がないことだから。
・充実感や幸福感は日常の色々なことから同じように得ることができるから。
・ひとつの大きな生きる目的を持っていることは、ただ意識のバランスが偏っているだけで、別に偉いことでもすごいことでもないから。
・生きる目的は探せば見つかるものではなく、自然と「芽生える」ものだから。
生きる目的なんかなくても充実感を得る方法とは?
まず、
・生きる目的をひとつだけ見出そうとせず、小さな100個のことに分散すること。それらの些細な喜びすべてのために生きること。
そして、
・生活習慣を美しく整え、いつか出会うかもしれない生きる目的を迎え入れるための心の掃除・下準備をすること。
それができたら、
・ちょっとでもやりたいことは、ちょっとでいいからやってみること。
虚しさは、自分の心が迷子になっていること。
そんな時は、ただ今の自分を見つめること。
どこにもない「生きる目的」などという大それた幻想を夢見るよりも、「今この瞬間に幸せでいること」の方が、根本的な解決になる。
生きる目的を探すのは、それからでも遅くないんじゃないかね。
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