9月になると秋の匂いになり、心境も変化する
8月31日。
今どきの子は違うのだろうが、私の世代は
「夏休み最終日」という印象の日だ。
その日、東京は
見事なまでに「秋の匂い」にがらりと変わった。
季節の変わり目というのは、
誰にも分からないように徐々に変わっていくものではない。
ある日突然、町の空気の「匂い」が変わる。
今年の秋の匂いは、8月31日の夜に訪れた。
まるで地球がカレンダーを知っているかのように、
明日から2学期という次の節目が始まることを知っているかのように。
突然秋の匂いで満たされた町の景色は、
赤みを帯びた黄金色のフィルターがかかる。
あぶらとり紙を乗せる前の額のような、
てらりとした植木の葉が色濃く沈む。
かわりに、夏の日差しのもとではあんなにみずみずしく映えていた広葉樹の葉が
なぜか突然色褪せて見える。
私はそんな、季節の変わり目の日の匂いが大好きである。
夏の匂いが「解放」なら、
秋の匂いは、胸を優しく締め付ける。
秋は「夏と冬の境」のことを呼んでいるに過ぎない、
とは私は思わない。
夏でも冬でもない「秋の匂い」というものがある以上、
秋という季節は「ある」のである。
私は秋生まれではないので秋には何のイベントも無いのだけれど、
秋の匂いはそれだけで私を幸福にする。
9月1日の朝に出勤したときも、
会社の中は秋の匂いに満ちていた。
私は何度も深呼吸をし、そのたびに
不思議な幸福感が無条件に湧いてくるのを感じた。
季節が移るときの匂いは、感じる人と感じない人がいるらしい。
同居している彼にそれとなく「もう秋だ〜」と言ってみたところ、
「そういえば涼しいね」というくらいで、
あまりピンときていない様子だった。
季節の匂いに敏感なのは、
外界の刺激に敏感な内向的な人間に多いかもしれない。
昨日と今日では、こんなにも景色が違うのに。
こうなると、もう夏色の服は着られない。
というより、着たくなくなる。
秋の日差しは、夏の色をくすませる。
かわりに、深い紅や緑や紫色が香り立ち始める。
私は秋の色があまり似合わないが、
年齢を重ねるに連れて秋の色が好きになってゆく。
夏が水彩画だとしたら、
秋は透明感のない、油絵のような色彩。
もったりとした重さのある色。
それか、乾いたような褪せた色。
甘みのある風。
町はそんな風に変貌する。
それとともに、私の心境も変わる。
突然、髪の長い自分に違和感を覚える。
「この姿は、私じゃない」と。
10月の匂いの変化を感じたとき、私は髪を切った
東京の10月1日は、
また空気の匂いががらりと変わった。
それはやはりカレンダーのページをめくるような、見事な変わり様だった。
秋は、実は四季の中でも激動の季節だ。
間延びした夏の暑さにだれていた植物たちが、目が覚めたように冬支度を始める。
落ち着いているようなふりをして、お前たちは一体何をそんなに駆け足でいるのだい。
そう声をかけても、彼らは細く甘い香りを零すばかりで、こっちには見向きもしない。
そんな忙しなさを知ってか知らずか、
街の女の子たちは紅葉したような色に一斉に衣替えする。
おしゃれな女の子は、いくら日中は暑くても9月に入れば夏の服はタンスの奥にしまい込む。
季節の空気に先立って、 ちゃんと紅や茶色やレンガ色のような「秋色」に身を染めなくてはならないのだ。
そんな一足先の東京の街に追いつくように、10月に入るとキンモクセイが一斉に香りだした。
会社の繁忙期を何とか乗り切った私は、肩に揺れる厚い重みが不意にうっとうしくなる。
長い髪を切ろう。
そう直感的に決意するのはいつも突然だ。
理由なんてのは後からついてくる。
長い髪をばっさりと切るのは4年前以来で、
私は髪を切ることを思うと胸がわくわくした。
女の髪に溜まる色んなものを断ち切り、身軽になる
女の髪には「何か」が籠もる。
空気の塊が、
道行く視線が、
自意識が、
絡みついて団子のようになっていく。
今の私には、それらが髪の重み以上に膨れ上がって、とても重たかった。
長い髪は、持ち主の気質を丸くしなやかに、静的にさせる。
つまり「女性」性を増幅させるのだ。
髪を切りたくなった理由を考えれば、
私は多分、自分の女性性を減らしたくなったのだ。
少年みたいに遊ぶこと。
仕事での判断力を養うこと。
私がやりたいことにとって、視界を阻む長い髪は邪魔だった。
早速、
「髪切るわ」
と同居中の彼に言ってみた。
彼は喜んだ。
その週末、私は髪をショート・ボブの長さまで切った。
髪を切ると、とてもスッキリした。
こうなるべきだったのだ、という気がした。
膨れ上がった女を切り捨てて、
それでも私の中身は十分女だった。
4年前に今と同じくらいかそれ以上に短くばっさりと切ったのは、
「世を離る」という決意からだった。
うつ病でトイレに起き上がることすら難しくなっていた頃、母に助け出されて実家に戻った直後だった。
女性性を切り離し、世俗を断ち切ろうと、本当に出家するような思いで髪を切ったのだ。
あの頃と今の心境は違う。
今の私は、髪を切っても損なわれるものは何もない、と感じている。
何ひとつ、失われはしない。
髪を切ることで時間の使い方や周囲の視線をコントロールする
女が髪を切ると、見えない変化が起こる。
例えば、今まで髪に使っていた時間やエネルギーは、他の何かに充てられるようになる。
今まで私の髪に注がれていた彼の視線は、別のどこかを見つめるようになる。
そういう変化を、あえて起こす。
髪を切ることで自分を、周りをコントロールする。
感性を張り巡らせていれば、その変化は確かに感じ取ることができる。
そして感性を最も研ぎ澄ませやすいのが「秋」という季節なのだ。
この秋は、仕事が楽しくなってきた季節でもあった。
とろとろせずに、無用な時間は切り捨てる必要があった。
そして、プライベートでも自転車に乗ることが増え、
そのへんを駆け回れる身軽さが必要になった。
そんな理由をあとづけで考えてみる。
でも本当は、
ただキンモクセイが香ってきたから。
だからふと「切りたい」と思っただけかもしれない。
髪を切ることで自分の「女性」性を、人間関係をコントロールする
長い髪が邪魔になるタイミングというのがある。
「髪」に意識を向けたくない、視線を向けてほしくない、という時期である。
長い髪というのは、女のオプション機能である。
長い髪の力が必要なときもあれば、
必要ないときには必要ない。
仕事をする上で雑念となったり、
単純に飽きたり、
女らしくなりすぎて甘ったるくて暑苦しくなったり、
理想とするシルエットが変わったり、
失恋して元彼の手垢を排除したくなったり、
…いろんな理由で、女は髪を切る。
「切るわ。さよなら」と、
本当に決意したときは、恋人と別れる決意をしたときと同じで
まるで未練がなく潔い。
「長いほうが良かった」
とか何とか言われると、
むしろ計画通り、とほくそ笑む。
「あんたが私の髪に向ける視線がうっとうしかったから」
切った甲斐があったというものである。
髪を短くすると、優しくてふわふわした女しか相手にできないしょうもない男を排除できる。
ああ、清々しい。
気持ち良い。
髪を切るときは計算ずく。
大人の女は100%自分のために、髪を切る。
数年前、出家する思いで断髪したときの話→うつ病になったらSNS・ネットをやめてプチ出家