「うつ」になると、自己肯定感がゼロに限りなく近づきます。
つまり「自己否定の塊」になってしまいます。
うつになると、考え方が歪んできてしまう
うつの主な症状は、物事の受け取り方や解釈のしかたが歪んでくる「認知の歪み」。
「私の周りの人たちは皆、こんなダメな私のことを疎んでいるに違いない!」
なんて思い込みが始まってしまいます。
実際には全然そんなことはないのに。
一番親しい友人や家族からでさえも「嫌われている、疎まれている」と思い込んでしまいます。
そして、行きすぎると
「私はこの世のすべての人間から疎まれ、忌み嫌われる存在だ…!」と、本気で信じこんでしまいます。
本気の本気で。
「うつ」の張本人は、「世界中に忌み嫌われる私」というのは「事実」だ!と思い込んでいます。
でも、もちろんこれは「事実」ではなく、その人の個人的な「考え方」に過ぎません。
「多分そうだろう」という、単なる主観的な想像なのです。
ただ、人は皆、「自分」が世界の中心・常識の基準だから、
自分が認識していることが「事実」ではないこと(単なる「主観」であること)に気づけないのです。
しかし、
「別に世界中の人があなたを嫌ってるわけじゃないよ」
という事実を本人が認めることができれば、この歪んだ考え方は治ります。
歪んだ考え方・認知を直す方法
では、どうすれば事実を認められるようになるかというと、
周りをよく観察して、「事実」を知ることです。
事実を目の当たりにすることで、
「私はAだと思ってたけど、実はBだったのか・・・!」と、自分の考え方の「答え合わせ」ができます。
これを繰り返すことで、誤った(歪んだ)考え方を正していくことができるのです。
この、事実を観察して自分の考え方の答え合わせをすることを、
私は「実験」と呼んでいます。
うつで歪んだ考え方を直す「実験」
私は、「私は誰からも忌み嫌われ、疎まれる存在だ」と思い込んでいました。
その「認知の歪み」を直す―というか、本当にそうなのかどうか確かめるため、
実験をしてみました。
その実験でやることはひとつ。簡単です。
それは、「自分と接する人を観察する」こと。
「接する」というのは、ほんとに些細なものでOK。
歩いていてすれ違うとか、駅やコンビニで偶然近くに立ったとか、道ですれ違いざまに目が一瞬合っただけ、という場合も含めます。
ただ、SNSや電話などの間接的な接触は基本的に含みません。
生身で接することを指します。
私は、その辺を散歩したりする気力がある日は、
近所を歩きながら、行き交う人々を観察しました。
(ただ、「うつ」中は外に出る気力がないことが多いので、外に出られるまで症状を回復させる方法は別の記事でお伝えします。)
▼うつ病の症状改善方法はここにまとめています
・うつ病を治した方法
人に嫌われてるかを電車で実験!
私の場合、大学生の頃にうつ病になったので、
うつの症状が少しましになると、残った単位を取りに大学に通うために、
よく電車に乗っていました。
電車は、実験をするのにとても良い場所です。
席に座るにしても、立っているにしても、周囲の人の観察がしやすいからです。
もし私が「誰からも忌み嫌われる存在」なら、
横に座ってる人や、傍に立っている人は、私に対して何かしら「嫌がるそぶり」を見せるはず。
しかし、ほとんどの場合、その予想は裏切られます。
周囲の人は、私が隣に座ろうが無反応。
そこで私は気づきます。
「あれ、皆、私のこと全然気にしてない・・・。」
そうやって、自分がいかに自意識過剰であったかを肌で感じることになるのです。
人に嫌われてるか家の近所で実験!
電車に乗るほどの元気がないときでも、家の近くのコンビニに行って、何か買って帰ってくるだけでも良いです。
コンビニの店員さんが自分に対して嫌悪感をあらわにするのかどうか観察する、という「実験」をするのです。
このとき、ちゃんと相手を見て観察することが大切です。
相手から目をそらしたまま、「多分こういう表情をしているんだろうな」という推測で終わる、というのは実験になりません。
店員さんの対応はどうだったでしょうか?
ものすごく睨まれたとか、舌打ちされたとか、顔を背けられたとか…どんな反応が返って来たか確かめます。
普通はそんな嫌な反応はされないでしょう。
案外大したことないことに気付いて、「なーんだ」と胸を撫でおろす感覚を味わってみてください。
とても気が軽くなります。
普通に道を散歩するだけでも大丈夫です。
通りすがる人が明らかに自分を避けるとか、暴言を吐いてくるとか、不審な目で見てくるとか、そういうことが起こるのかどうか。
起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。
実験を行うタイミングに注意
万が一、変な人に出会ってしまって嫌な思いをするリスクも、ないではありません。
万が一嫌な思いをしてしまう、というリスクがあるので、
うつ病の場合は、症状がある程度ましになってきた頃に行うべき実験かもしれません。
身だしなみもある程度整えられる段階である方が良いとも言えます。
その方が、周囲の反応を精確に把握できますし、身なりは小ざっぱりとしていた方が他人の反応も良くなります。
無精ひげ&お風呂に入っていなくて汗臭い とか、あまりにボロボロな服や汚れた服で外出したりすると、さすがに実験結果に影響が出るかもしれません。
別に良い服を着る必要はありません。
人に不快感を与えない服を新しく用意したい方は、とりあえずユニクロに行って、一番シンプルなマネキンの服装を一式買って着るで良いと思います。
※マネキンと同じ感じのシルエットになるように、買う前に試着することをオススメ。
家族など、身近な人の観察は難しい
実験で、他人のそぶりを確認していくうちに、
肥大していた自意識は段々と本来の自分サイズに収まっていきます。
他人が自分の存在の事を大して気にしていない、という事実が見えてくるからです。
そのようにして、他人の反応を見ることは、まだ簡単です。
しかし、お互いに知っている「身近な人」、例えば家族や友達などになると、途端に実験は難しくなります。
現に、私にとっては、赤の他人よりも、家族が自分をどう思っているか、の方がはるかに問題で、
そしてその認知は長いこと正すことができませんでした。
私はうつ病になった頃、家族のことを歪んだ目で見てしまっていました。
「家族は私を蔑んでいる」
「私を邪魔者だと思っている」
「私は一家の恥さらしだと思われている」
という怖ろしい考えに、心の底からとらわれていました。
食卓でどんなに近くに座っていても、父の、母の、妹の、自分に対する気持ちが分かりませんでした。
実際には、彼らはいつも通り朗らかに食事をしていただけです。
私に対する悪意など、家族のだれ一人、持っていませんでした。
それなのに、私は家族に疎まれていると思い込んでいました。
結局私は、家族に対するその歪んだ認知を最後の最後まで自力で直すことができませんでした。
それを正すことができたのは、自殺衝動に耐えきれず、初めて両親に「死にたい」という思いを吐き出したときでした。
今思えば、これも一つの実験でした。
その結果はどうだったか。
「じゃあ死ねばいい」「お前なんか要らない」などと、両親は言いませんでした。
両親は、私を大切に思っていることを伝えてくれました。
そこで初めて、私は親に疎まれてなどいないことを知ったのです。
・・・いや、もしかしたら、「この子(ずっと部屋に引きこもってるけど)大丈夫か」ぐらいは心の底では思われていたかもしれません。
だけど、私が苦しみを吐露したことで、「死なれるよりはマシ」という思いで、「あんたのことが大事やで」と言ってくれたのかもしれません。
本当は、赤の他人に対する実験と同じように、フラットな目で見ていれば、分かったはずのことでした。
両親や妹の交わす朗らかな会話。表情。その場の空気感。
それなのに、「家族」というだけで、認知が歪んでしまう。
怖くて、目の前のことを直視できなくなる。
なぜ、家族から愛されていることに気付けなかったのだろう。
うつとは、それほどまでに認知をゆがめてしまう、恐ろしくヤバイ病なのです。
こういった、より身近な人に対する実験は、赤の他人に対する実験とは違って、ある危険を伴います。
なぜか。
それは、反応次第で、こちらが大きく傷つく可能性があるからです。
私の両親のように、「あんたが大事やで」と言ってくれる親ばかりとは限りません。
(まあ、そこで「大事じゃない」というような親にはもう期待せずに縁を切って良いかと思いますが…)
私自身も、怖くて、家族の反応にはまっすぐ向き合えませんでした。
▼ 家族とのわだかまり解消についてはこちら
会話で家族との問題を解消して関係を深めると、うつが治る?
家族がうつになった時、うつ病者が救われる接し方・過ごし方。
人生は実験の連続
私は、勝手に「私は世界中の誰にも好かれない」「私は皆に嫌われる、価値のない人間だ」と思い込み、一時期は死にたくて仕方ありませんでした。
うつを治してからは、
私はそういった「思い込み」に踊らされないために、
「事実」を見逃さないように観察しています。
接する相手の態度。
会話する相手の表情。
身近な人がとる行動。
また歪んだ認知に陥らないために。
それは、相手の顔色をビクビクとうかがうことではありません。
もっと冷静に、客観的に、文字通りただ「事実を観察する」という感じです。
相手の言動を無駄に「解釈」しようとせず、事実だけを受け止めるのです。
それまで私は、誰かが勢いよく音を立ててドアを閉めたときなんかは、いちいち「私に怒っているのだろうか」とか気にしていました。
だけど、この実験を始めてからは、「ドアを閉める勢いが強いなー」としか思わなくなりました。
「何かに怒ってるんだろうか」
「私への当てつけだろうか」
とか、考えても分からない(そして、多分関係ないであろう)ことをいちいち気にしなくなったのです。
それはさておき、
ある意味、人とのかかわりは全てが「実験」なのかもしれません。
この人とどこまで分かりあえるだろうか。
この人とのかかわり合いによって何が起こるのだろう。
この状況なら、こういう反応が返ってくるだろうか。
仮説と検証。
私は今でも、町中でそんな実験を繰り返しているような気分になります。
そして、「誰も私のことなんか大して気にしてない」ことを再確認し、ふっとリラックスできるのです。
(おまけ)
ちなみに、この実験がうまくいきすぎる(?)と、
ポジティブな方向への自意識過剰へ振れてしまう可能性があります。
要するに、「ナルシスト」になるリスクがあるということ。
「あれ、私って人からすごく好意的な目を向けられている?」
「今の人、私のこと二度見した?」
「すれ違いざまに振り返られることが増えた?」
など。
勘違いも甚だしい、
傍から見れば痛々しい。
ですが、
そう思っても全然構わないと思います。
自分でどう思おうが、誰にも迷惑はかけませんし。
時にはそういう風にポジティブに思い込んでみるのも、
人生楽しいです。
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