「自分を愛すること」に目覚めて幸福度がカンストし、うつが治った話。

 「自分で自分を愛している状態」に達すると、最強の人間になります。

この世にこわいものはほとんどなくなります。

うつ病になったとしても、自分を愛することができるようになれば、その後“うつ”が再発する可能性はほとんど消え去ります。 

それはなぜか?

自分への愛を獲得すると、「自分が自分によって満たされる」ので、幸福感を自分で生み出し維持できるようになるからです。

そして、「足りないものはない。すべては自分の中にある」という感覚に目覚めます。


 

この世界に対しても、「満ち足りた、完全な世界」だと感じるようになるのです。

一度その幸福感・充足感を構築してしまえば、外界の刺激によって簡単に崩れることはありません。

なぜなら、自分の内面から沸き起こる感覚だから。

 

 


「愛」とか言うと胡散臭いとか、スピリチュアル系の話か?と身構えるかもしれませんが、


うつ病を治し、そして幸せに生きていくためには大切な概念です。


 

「自分からの愛」と「自分への愛」。

うつのときは、これらが欠けている状態です。

この愛を手に入れると、「うつを抜けた」という幸福感をひしひしと感じられるようになります。



※もちろん、うつ病をちゃんと治すには、そこに至るまでの間に、服薬や、「心を休める」(【うつ病の心の休め方】うつの治療中はこの3つを守って心を休ませること)といった療養が必要になります。

 

しかし、どうすれば「自分への愛」を抱けるようになる(=「自分からの愛」を手に入れることができる)のでしょうか?

目次

「自分への愛」を手に入れる方法・課程

「自分への愛」を手に入れる方法ですが、

「自分を愛そう!」と決意したって、すぐには愛せるようにはなりません。

それができれば誰も苦労しません。


ではどうすればいいのかというと、

「あたかも自分を愛しているかのように振舞ってみる」ことを続けるだけです。

 

「自分を愛そう!」と思っても出来ない理由は、

「愛する」とは、「走る」「食べる」のような自分の意思で行うことではないからです。


「愛する」というのは、正しくは「私は○○を愛している」という「状態」を指す言葉だからです。

例えば「私は悲しんでいる」「雨が降っている」というような、「今そういう状況にある」というのを言い表しているだけなのです。

「私はこれから悲しむんだ!」と決意したからといって悲しい気分になれるわけではありません。
何かきっかけがあって自然と「悲しい」状態になったときに、初めて「私は悲しんでいる」という言葉を使います。


それと同じで、「私はこれから○○を愛すぞ!」と思って出来るものではありません。
何かを愛している状態になったときに初めて「私は○○を愛している」と、その状態を表現します。

 

つまり「愛する」ことは、能動的にできるものではないのです。

そもそも「愛する」という動詞が存在することがちょっとおかしいと私は思っています。
「そこに愛がある(何かのCMじゃないですが)」とか「愛おしい」とかなら分かるんですけどね。

だから、「自分を愛する」よりも「自分に向けた愛を手に入れる」という風に思ってもらった方が正しいかもしれません。

 

つまり、「自分を愛する」ことは自分の意志では出来ないものなので、

「自分で自分を愛している状態」まで何とかして辿り着く必要があるということです。


 

そこに手っ取り早く辿り着くには、「 あたかも自分を愛しているかのように振舞ってみる」のが一番です。


愛情というのはどうやって生まれますか?

まずは相手と接し、向き合うこと。

そして相手を思いやり、相手がそれに笑顔や喜びで応えてくれること。

自分が弱みを見せた時に、相手がそれを受け入れてくれること。

相手が弱みを見せてくれて、それを大きな心で包み込むこと。

相手が苦しんでいるときは、そのことに理解を示し、相手を労わって、苦痛を和らげてあげられるように努めること。

自分の存在が相手に喜びを与え、相手の存在が自分に喜びを与えてくれること。

 

そういった、「何かを愛する時ってこういうふうにするよね」というのを、思いつく限り、「自分」に対して行うのです。



まずは、自分を心から愛してくれる恋人を想像してみてください。

彼/彼女は、あなたの駄目なところも、だらしないところ、情けないところもひっくるめて、丸ごと愛してくれる存在です。そう想像してください。

そして、自分がその恋人になりきってみるのです。




または恋人ではんくても、自分のすべてを愛で包んでくれる聖母のような存在を想像しても構いません。

私のすべてを心底愛してくれる人なら、私に何をしてくれるだろう?

私の幸せを一番に願ってくれる人なら、私に何て言うだろう?





自分なりにで構いません。

最愛の人のように自分を扱い、最愛に人にかけるような言葉を自分にかけてあげてください。

最初は本心ではなくとも、ぎこちなくても大丈夫です。

どろどろに甘やかして良いですし、思いっきり自分中心の世界に浸ったって良いです。

「我ながら気持ち悪い」と思ったって、あなたの心の中は誰にもバレません。


安心して、思う存分、自分を愛するための思いや行動に浸ってください。





それを続けることで不安が減り、「安心感」や「幸福感」が少しでも芽生えるようになったら、成功しつつあります。


もし逆に、そうすることで胸のざわつきが大きくなったり、不快な感覚を覚えるようなら、「自分が本当に望んでいること」をしてあげられていないということです。

「愛する方法」が「本当にあなたが求めている愛」とずれているということです。

その時は、もう少し自分自身の内面を深く探り、見つめてみる必要があります。


 

「本音」を抑圧してはいけません。

たとえ「誰々が妬ましい」「腹立たしい」「憎らしい」などの黒い本音であっても、まっすぐにその声を見つめ、聞き入れ、尊重しなければなりません。

「何が妬ましいの?」「何が気に入らないの?」と逃げずに自分と対話をし、本当に自分が欲しているものを見つけ、与えて(または嫌がっているものを取り除いて)あげなければなりません。

人間を丸ごと愛するとは、そういうことです。

自分の本音から逃げない。筆者の事例

例えば、私はいわゆる「男に媚びたような可愛い恰好をしている女子」に対して、黒い感情を持っていました。

でも、その黒い感情をまっすぐに見つめ、「なんで私はそう感じるんだろう?」いう「なぜ?」を繰り返し、心の底まで探ってみました。


すると、本心では、「できることならば、自分もそんな恰好をして、周りにちやほやされたかった」という、なんとも情けないというか、自分で認めたくないような格好悪い本心がごろんと出て来たのです。



その本心を見つめることは、最初はめちゃくちゃ苦痛でした。

「そんなわけない!」「私がそんな下衆なことを思うはずがない!」と、にわかには受け入れられませんでした。


でも、自分を否定すればするほど、心は苦しくなりました。

そこで、上に書いたような、「私を丸ごと愛してくれる恋人ならどうするだろう?」というのを考えて実践してみたのです。




「欲しいなら、可愛い服を買ってあげるよ」
「きっと似合うよ」
「それを着た君の姿、見てみたいな」


いやいや、そんなこと言ってくれる相手、この世にいないから。
と自分で突っ込みつつ、

「でも、自分だけは自分にそう思ってあげたい」と、(また自分の中の抵抗感と抗いながらも)半ば無理やりそう思ってみることにしました。




そしてある日、いわゆる自分が「目の敵」にしてきた女子が来ているような可愛いブランドの服屋を、訪れたのです。

そして、恋人が「これなんかどう?」と選んでくれるように、自分で自分を「可愛い彼女」と思い込むことにして、服を選びました。

内心かなり恥ずかしかったし、「こんな、可愛くもない自分が」という気持ちもあったし、店員さんに「こんな地味な子がうちの服買いに来るの?」と馬鹿にされるのではという恐怖もありましたが、

それは私にとって、「自分を愛する」訓練の一つでした。




まずは、比較的ややおとなしめなモノトーン系の花柄のスカートを選んで勇気出して試着したところ、

可愛い店員さんが「花柄のスカートでしたら、こういうのもありますよ!」と、

今度はもっと華やかなピンクの花柄の、ふわっと広がった、めちゃくちゃ「可愛い」系のスカートを持ってきてくれました。



おずおずと試しに試着してみると、鏡に映った自分はこれまでの自分とは別人でした。

「わあ!こっちの方が似合ってるかもー!」と店員さんが褒めてくれます。

まさかそんな可愛いスカートが自分に似合うなんて。
営業トークだろうとは思いつつも、
でも確かに、華やかなピンク色の花柄を映すように、自分の目や頬の血色がいきいきとして見えました。



「自分を愛する」マインドは、外界にも伝播するんじゃないかと、感じました。




最終的に、「可愛いじゃん!買ってあげるよ!」と、自分の中の恋人がそのスカートをお買い上げしました。


そして知ったのは、可愛い服というのは必ずしも「異性に媚びる」ために着るものなのではなく、
自分の幸せ度を高めるために着るものなのだ、ということでした。

今まで馬鹿にしてきた女子の皆様に頭が下がりました。
彼女たちは正しく自分を幸せにする方法を実践していたのです。




他にも、クリスマスにイルミネーションを見に行きたい、と自分の本心が言ったなら、一人で見に行ったりしました。

▼一人デートのやり方とその効果について
「自分自身」とクリスマスぼっちデートして心が癒えた話【自分で自分を幸せにする】



やりたいことだけではなく、「やりたくないこと」も全部叶えてあげました。

学校行きたくない。
車運転したくない。
朝起きたくない。
何も読みたくない。
就活のこと考えたくない。

※当時はうつ病の療養中で、うつ病のせいで大学留年中でした。



うん、じゃあ、ちょっと休もうか。
全然やらなくていいよ。

そうやって、どろっどろに自分を甘やかしました。





こういった訓練を、私は一つずつ重ねていきました。

そうしていくうちに、自分の中の「本当は満たしたかった気持ち」「抑圧してきた望み」「○○すべきという義務感」が一つずつ解消されていき、

色んなものにがんじがらめになって重く沈み込んでいた気持ちが、一本一本鎖が取れていくように、

次第にふわふわと軽くなってきたのです。

自分を愛する行為を続けると、自分は自分の本心を大切にできるという安心が芽生える


上に書いたのはほんの一例ですが、

こうして「あたかも自分を愛しているかのように振舞う」実験を続けていると、

「自分で自分を幸せにしてあげている」という「愛する側」の喜びと、
「自分が自分を幸せにしてくれる」という「愛される側」の両方の喜びを感じることができます。

 

その実験を、ずっと続けてください。

そうすると、その喜びや充足感がくせになっていきます。

その結果、あなたは自分の”心”を何よりも大切にして過ごすようになります。



それが習慣になると、

「あ、他人に頼らなくても、自分で自分を満たすことって、可能なんだ」と気が付きます。
それと同時に、
「自分を満たせるかどうかは、自分次第なんだ」という自己責任感も生まれます。



「自分の心を守ってあげられるのは自分自身」。
「自分の心を守ってくれるのは自分自身」。
それが身に染みて分かるようになるのです。

そんな日々が続いていくと、「自分で自分を愛している」という状態まで限りなく近づいていきます。

 

私には、この実験を続けるうちに、

「自分への愛を いつのまにか 手に入れていた」ということに気付く瞬間がありました。

「私は今、生まれて初めて自分の事を愛している…!」と自覚した瞬間でした。

20数年間の間、一度も味わったことがなかった感覚でした。


このときの衝撃はすごかったです。

人生で感じたことのない、爆発的な喜びと幸福感が押し寄せました。

ただ、それと同時に、過去の自分が自分に対していかに酷い扱いをしていたかにも気が付き、「ごめんなさい」という謝罪の念が嵐のように襲ってきて、涙が止まらなくなり、

そしてしばらく動けなくなりました。

自分を愛している状態とは、自分が自分によって満たされている状態

「自分への愛を獲得した状態」つまり「自分を愛している状態」とはどういうものか?

 

これは、最初にも述べたように、

「自分は自分によって満たされている」という感覚です。

 

そこには、他者の存在は必要ありません。

 

「他者によって愛される」ということの意味は、
「その人と接しているときの、”その人に見せている自分”が愛されるということ」

つまり、「自分の”一部分”だけが愛される」ということに過ぎません。


あなたの心の底に押し隠している本心や、相手に見せていない部分については、相手は知りません。

だから、どんなに「あなたを丸ごと愛している」と他人に言われても、
所詮それは「あなたの一部を愛している」ことに過ぎないのです。


それに対して、自分に愛されるというのはスケールが全く違います。

本当に「自分自身のすべて」が許され、慈しみを受け、尊重されるのです。

この無敵感と充足感ときたら、他人に愛されるときの比ではありません。

 

自分を愛するとは、自分で自分を満たし、最高の幸せを享受すること。

自分の丸裸の状態を――どうしようもなくだらしない面も、意地汚さや毒気のある面も――正面から見据え、その存在を許し、受け入れ、尊重すること。

 

どんな欲求も自分自身に聞き入れてもらえるという安心感。

自分は自分によってのみ成り立っているという自尊心。

 


それを一度手にすれば、それを失うことは耐えられなくなり、そして自分次第でそれを失わないでいることは可能なので、「一生幸せでいつづけられる」ことができるのです。

「自分への愛」があれば十分だけど、他人からの愛だけでは不十分。

私たちは、「愛」をどこか、

「他人に与えるもの」

「他人から与えられるもの」

と思いがちです。


しかし、最も大切な愛、最も強力な愛とは「自分に与え、自分から与えられるもの」です。

そして、実は確固たる「自分への愛」があれば、他人からの愛は必要ないのです。

「愛されたい」「存在を認められたい」という思いが、自分によって100%満たされるからです。



 

逆に、他人に愛されることで心が100%が満足することは、絶対にありえません。

なぜなら、人は他人の内面を知ることができないので、他人の内面のすべてを愛することは不可能だからです。

他人は誰もあなたの本当の欲求を知りません。
「あなたのすべて」を愛することのできる他人などこの世にはいないのです。

他人が愛せるのは、あなたの全体から見れば、あなたの表面的な一部分だけです。


しかし、人は他者から愛されることを切に望みます。

なぜなら、「確固たる自分への愛」を持ち続けることは、現実的には不可能に近いから。


誰しも自分に自信がなくなるときがあります。
自分の在り方に不安を覚える時もやってきます。

寂しくもなります。
怖いときもあります。


そんな風に人間らしく心が揺らいだ時に、本人の心中を思いやって「大丈夫だよ」と傍に居てくれる他者の存在は、とってもありがたいことです。


だから、他人の愛なんて必要ない!とは言いません。

しかし、「自分への愛だけをあてにして生きる」のと、「他人からの愛だけを当てにして生きる」のを比べたら、

圧倒的に前者の方が幸せです。

なぜなら、自分の幸せが何であるかは、他人は知り得ないから。

他人を愛する力をつけるには、自分を愛せる度量が必要

次に、”他人を愛する”ことについてです。 

「自分なんかより、他人を一番に愛して生きた方が幸せなのでは?」
「自分優先ではなく、他者への思いやりを最優先にして生きる方が、人として善いことなのでは?」

という意見があると思います。



しかし、そもそも「自分自身への愛」と「他人に対する愛」は、どっちが優先とかどっちが大きいなどと比較する対象ではありません。

むしろ私は、両者のエネルギーは比例する(どちらかが増大すればもう片方も大きくなる)と思っています。


自分への愛というのは、自分の内面で完結し、内面にエネルギーを沸かせるものです。

一方で、他者への愛というのは、自分の内面のエネルギーとか情熱みたいなものが外界に向くということです。

つまり、自分を愛して内面のエネルギーを高めた方が、他者を愛する熱量もそれだけ大きくなるというわけです。完全に抽象論ですが。

 

とにかく、「自分自身を愛したからと言って、その分他人への愛が小さくなるわけではない」のです。

だから、「自分をそんなに愛してしまったら、自己中心的なわがままな人間になってしまって、他人を愛せない非道な人間になってしまうのでは?」と恐れる必要は全くありません。

むしろ、自分を愛することで、「本当に人を愛する方法」や「人から愛されることがどういうことか」が分かって来るので、他人の愛し方もよく分かってきます。

 

あとは、正直に言うと、「自分なんか愛したくない。自分よりも別の誰かを愛したい」ということは、「人間の中のネガティブな部分は愛したくない」というのと同義です。

自分を愛せないということは、「自分の中の○○な部分が愛せない」ということで、他人にその「自分で愛せない」部分と同じ部分を見たとき、人は嫌悪感を抱いてしまいます。

(上に書いた「媚び媚び可愛い系女子」に対する私の思いと同じように。)



そうやって条件つきで他者を愛する人には、人間を丸ごと愛することなどできません。

他人を愛するって難しいですよ。

自分の予想や期待通りになんて絶対に動いてくれませんから。

 

だから、「他人を愛したい」という思いの強い人は、他人を愛する力をつけるためにも、まずは自分を愛する器を身に着けましょう。

 

「自分のことなんてどうでもいい、他人だけ愛していよう」というスタンスは、「楽」なので、陥りがちなのです。

他人のことは表面的にしか見えないから、人間の心の奥底のドロドロしたものと見つめ合わなくて済むからです。

しかし、自分を愛そうとすると、自分のネガティブな面も直視しないといけないので、逃げたくなります。

楽して得られるものよりも、そうやってネガティブな部分も引き受けて得るものの方が収穫は大きいのです。

自分を愛せていない人は、「愛されない自分」をどこかに置き忘れている

前述しましたが、

私には、「自分への愛」を手に入れたことに気付く瞬間がありました。

その瞬間、自分がいかに今まで自分を“いじめて”きたかを実感したのです。

 

うつになるまでは、私は「頑張る自分が好き」で「頑張らない自分は嫌い」でした。

誰よりも勉強したり、練習したりと、常に頑張っていないと自分の価値を認められませんでした。

自分が頑張れていないとき、私は自分をいじめました。

部活の練習もダイエットも受験勉強も。

少しでも怠ければ自分を罵倒しました。

弱者。

怠惰。

無能。

時には、思い通りにできない自分の身体を殴ることもありました。 

もはや虐待の域です。

 

そんな性格で生きてきて、大学に入ってから私の心は壊れ始めました。 

「頑張ろうとすること」自体に疲れてしまい、それが「うつ」となって現れました。

 

私がうつ病になったのは、自分を虐待してきたツケなのかもしれません。

 

「自分への愛」が自分の心に芽生えているのに気がついたのは、

ちょうど自分で幸福感を作り出す実験がうまくいっていて、気持ちがとても穏やかに幸せになっていた頃でした。

引き金は、「自分への愛があればいい」みたいな文章をネット上で読んだことでした。

 

自分の中に、愛すべき自分がいると気付いたとき、私は初めて「内なる自分」の姿を見ました。

今まで、散々に自分自身に「無能」「怠け者」と否定され、罵倒され、声をあげることもできずにいた小さな少女。
彼女はぼろぼろで醜く傷ついていました。

そのぼろ切れのような子が、私が愛さなければならなかった少女の姿でした。

 

私は彼女を見た瞬間、自分のしてきた罪の重さに気付いて、胸が張り裂けるような思いがして、激しく泣きました。

ごめん、ごめんなさいと、彼女を抱きしめるようにして何度も何度も許しを乞いました。

 

―果たして、彼女は私を許してくれました。 

「わたしを愛してくれるの?」と、彼女はおずおずと私に問いかけました。
彼女は、私に優しく抱きしめられることなど初めてだったのです。

 

私は、命の限り誰よりも愛すると誓いました。

彼女から伝わってくるはち切れんばかりの喜びが、私が彼女をいかにないがしろにしてきたかを物語っていました。



彼女は、私の大きな愛を一身に受けて、精神的に一気に成長しました。

14歳ぐらいに見えていた彼女は、今や私との境界はなくなり、「私」というひとつの存在になりました。

 


愛することは、バラバラに引き裂かれていた自分がひとつに統合されること。


 


自分を愛していない人の中には、誰しも、「自分に愛されてこなかった自分」がいます

彼/彼女は、もしかしたら、あなたに愛されないことで、
深く傷つき、抑圧され続けてきて、苦しみにうずくまっているかもしれません。



彼/彼女は、あなたの中にいます。



その子を救い出せるのは、あなただけです。

あなたが愛することでしか、彼/彼女は救われることはありません。




それを放置すると、いつか彼/彼女は、いつか、苦しみに耐えられなくなる可能性があります。
いつか、限界がくる可能性があります。




スピリチュアルな話をしているわけではありません。

自分の中の欲求と現実とのズレがあると、現実に心の中に「苦しみ」が生まれます。

そしてそれは、どんなに無視しようとしても、根本的に解消しない限り、そこにあり続けます。




その結果どうなるか。

いつか、うつ病や心の病として現れるかもしれません。

「もう生きていたくない」という苦しみにまでそれが発展してしまうかもしれません。



そうなると、一大事です。

命を失ってしまっては、何も取り返せません。





「自分に愛されてこなかった自分」を、最初はポーズでもいいから、あたかも愛しているかのように行動してみてください。この記事に書いたことを、騙されたと思って、続けてみてください。




あなたの心は、何を置いても大切です。



仕事やら会社やらお金や、家族や周りの人々よりさえも、大切にすべきなのです。

自分を愛することができるようになったとき、その理由が分かるはずです。




あなたがあなた自身を愛せるようになることを、

実は周囲の世界は待っているのです。


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このブログの運営者

生きづらさを解消し、幸せに生きる考え方・うつ病の治し方をお伝えしています。
過去にうつ病になり、自分の考え方を変えて完治させた経験があります。

MBTI診断でいう典型的なINFP人間。
モットーは「自分の幸せを第一に生きる」。
現在会社員をやりながらADHDの夫と暮らしています。

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