高学歴女子が幸せになれることを身をもって知る
女が高学歴なんて幸せになれないよ!結婚できないよ!
という話を聞くと、笑える。
狭い世界に生きてるな〜、生きづらそうだな〜と思って。
私は京都大学卒だが、幸せを謳歌している。
思うに、女性を「高学歴組」と「そうじゃない組」に分けるのに意味はなくて、ただ単に
「幸せになりやすい思考の人」と
「幸せを感じにくい思考の人」がいるだけだ。
私は後者から前者へと自分を変えたから、2パターンの人生を経験している。
だか「学歴は幸福度には全く関係ない」と実感できる。
ではなぜ「高学歴女性は幸せになれない」説がまかり通っているのか?
高学歴で幸せを掴む女性は、幸福をひけらかすほどアホじゃないから見えないだけ
同じ京都大学の女友だちの話。
彼女らは、彼氏の有無に関わらず、キャンパス内では一人行動をしていることが多かった。
会話中も、「彼氏がさぁ〜」という話題になることがない。男性とのプライベートのあれこれを他人にベラベラ話しはしないのだ。
彼女らは、恋愛よりも大事なものを優先していた。自分やりたいこと、デートよりも楽しいこと。
だから一見、その子に彼氏がいるのかいないのか分からない。
彼女たちは賢明であり、謙虚なのだ。
「恋人がいようがいるまいが、自分は自分」という、自分の軸を失わない自立心と品格と誇り。
京都大学の私の周りの女子には、それが備わっていた。
そういう子がたとえ幸せな結婚をしても、
ハイスペ(笑)男と結婚しました☆旦那に愛されまくりで幸せ♡♡なんてひけらかさない。
それに彼女らは「幸せ=結婚」だとも思っていない。自分の頭で色んな挑戦ができるし、その楽しさを知っているからである。
高学歴じゃない人のほうが幸せな人が多いように見えるのは、それだけ「幸せアピール」をしている人が多いというだけだ。
もちろん、高学歴でも自己アピールして他者承認してもらおうとする人だっている。
そういう、自分がブレている人は「なんで幸せになれないの!もっと私はチヤホヤされてしかるべきでしょ!キー!」という声を声高に発信してしまう。そのせいで、まるで高学歴女子全員がそういう人であるかのように思われてしまう。
高学歴でも、その女性に品格と謙虚さがあればむしろ丁重に扱われるから、要はその人からにじみ出る人間性の問題、ということである。
高学歴で本当の幸せを掴む人というのは基本的に頭がいいから、幸せは「自己評価」で十分であることを理解している。
だから幸せアピールをしない。
それで巷に「幸せな高学歴女子はたくさんいる」ということが知れ渡らないだけなのだ。
だから、大学受験を控える女子は臆することなく上を目指してほしい。
自分の頭でしっかり考えられる力を身につければ、大きな幸せを手に入れられるから。
学歴を過剰に気にする人は、学歴の本質が見えていない
そもそも他人と知り合うのに、学歴なんてものはハナクソ程度の情報でしかない。
知ったところで何になるんだろう、と不思議に思う。
学歴なんてただの「過去の自分(過去の栄光)」の紹介。
良い大人が他人を学歴で評価したり、俺は○○大、なんて偉そうに言ってるのを聞くと
「え、何、あなた過去に生きてるの?20代前後の頃の出来事をそんなに引きずってるの?」と思ってしまう。
(もちろん、社会人になってからもう一度大学で学び直す人もいるから、必ずしも遠い過去の話ではない場合もある。)
いい年して学歴を引き合いに出すなんて、よっぽど「今」が空っぽなんだろうな、と思ってしまう。
そもそも「大学」の本質を分かっている人なら分かると思うが、
学歴というのは「門をくぐった」ことを指すに過ぎない。(めっちゃ勉強しないと卒業できない理系などの一部は除く。)
大学入試に合格したことと、
その大学を卒業したこと。
分かるのは、その2回、門をくぐったことだけ。その間の4年間に何をしたかなんて一人ひとり全然違う。
特に京都大学はそう。
自由の学風だから、何をしようが自由。
昼間から家で酒を飲みながら同期と語り明かす日々を送る人もいれば、
講義に出て友達にノートを貸しまくる人もいれば、
コスプレにハマる人もいれば、
毎日カレーをひたすら作る人もいれば、
鶏を締める人もいれば、
アフリカから帰って来なくなる人もいる。
私みたいにうつ病を通して生まれ変わって、ブログを始める人もいる。
「京都大学○○学部を出ました!」というだけでは、その人のことを何も知っていることにはならないのだ。
(皆に共通してるのは「入試を突破できる地頭がある」ことと、「高校時代に受験勉強を頑張った」ということだけ。)
物事の本質を見る人は、学歴という情報の空っぽさを知っているから、私を学歴というしょうもない色眼鏡で見ない。
「過去のことは分かりました。では今のあなたはどうなんですか?」と、鋭い眼光を投げてくる。
私はそういう人とだけ人間関係を結ぶ。
結婚=唯一の幸せではないことを高学歴女子の多くは知っている
彼女らは、結婚がすべてではないことを、人生の早い段階で知っている。
「女は結婚して家庭を築き子供を作るのが一番の幸せ」という前時代的な幸福観を、彼女らは高校生にして既に超越している。
「高学歴」と言われる大学に入ったことでそれを証明しているのだ。
だって、本当に「結婚が一番の幸せ」なら、
勉強なんかせずにモテる努力だけして若いうちから男を漁っていればいいだけじゃん。
でも彼女らはそれを「幸せ」とは呼ばない。
彼女らにとっての幸せは「自らの知的好奇心のままに」「自分のやりたいようにやること」という、この令和という時代に合った生き方だ。
だからその大学を目指し、その大学に入ったのだ。
私も17歳の夏、京都大学のオープンキャンパスに行って、その空気に惚れ込んだ。「私はここに行くんだ」と確信した。
理屈抜きに、それが私にとっての最大の幸せだと感じた。
心のままに。正しいかどうかもわからない常識にとらわれず、自由に、まっすぐ上を目指すこと。
頭脳という武器を持つことは、幸福の選択肢を広げる。
色んな選択肢を考えていくと、「結婚」は幸せになる無限の選択肢のうちの1つに過ぎない、と気づく。
そんな視野の広い女性が、世間の圧力に屈して「婚活婚活…」と執着していくのを見ると胸が痛む。
「女は男がいてこそ幸せ」という感覚は、自立心からは程遠い。そのギャップに高学歴の女性は苦しむのだろう。
(まだ結婚願望と婚活で苦しむの?「結婚したい」結婚教からの脱却)
そんな「結婚圧力」に屈することなく、純粋に自分の望むことを貫く女性は、幸せになれる。「幸せに見られる」ことよりも、自分にとっての本当の幸せを掴むのだ。
学歴と幸せは無関係である。その理由とは。
本来、学歴と幸福度には何の相関もない。
なぜなら、幸福とは100%主観であり、
学歴は「主観を変える」ことはできないからだ。
学歴を使うときというのは、履歴書などで「他人に自分を評価してもらうとき」だけである。
学歴は他人の評価の材料にはなる。
でも、それを持つ人の「自己評価」を左右することはない。自己評価は学歴などという薄っぺらい要素で変わるほど甘くないのだ。
「○○校卒であるおかげで幸せだぜ」「○○大学に行ったせいで不幸になったわ!」というのは、別に学歴のせいで幸・不幸になっているわけではない。
その学歴によって「他者評価をもらうこと」で、幸か不幸かを感じているだけである。
だったら、そもそも他人に何を言われても堂々としていればいい。
「あなたに何を言われようが私は幸せよ」というスタンスでいれば、一生幸せなままである。
しょうもない男性の僻みやくだらない女性のマウントでいちいち傷つく必要はない。
自慢だろうが自虐だろうが、学歴ネタを引き合いに出す大人なんて、どうせ自分の学歴にコンプレックスがある人だけだから。
「わざわざ他人に学歴ネタをぶつけるほど、自分で自分に納得できていないんだろうな」と憐れんでおけばいいのだ。
高校生の時に、やりたい勉強があって、行きたい大学があってそこに入ったはずだ。その大学に入ることが当時のあなたにとって最大の幸せだったはずだ。
幸せについてよく考えたこともない不特定多数の他人の声で、そんな純粋な自分の心を掻き消さないようにしてほしい。
幸せになれる高学歴女子と、幸せになれない高学歴女子
もちろん、高学歴女子と言っても一概に言えない。
生きづらさを生む考え方もあれば、幸福を感じやすい考え方もある。
ここでは、幸せになれる高学歴女子・なれない高学歴女子の要素を分析してみようと思う。
幸せになれない高学歴女子
- 幸せになれないのは学歴のせいだと思っている
- 人間の魅力は学歴・年収に比例すると思っている
- ザ・女の子っぽいゆるふわ系OLを見ると軽蔑するか不快になる
- いつも不当に低く評価されていると感じる
- 結婚しないと幸せになれないと思っている
幸せになれる高学歴女子
- 学歴なんてどうでもいいと思っている
- 人間の魅力は人間性であり、人それぞれなので比較はできないと思う
- 自分と他人の違いを許容できる
- 幸せを感じるのに他人の評価を必要としない
- 恋愛や結婚よりも大事なものがある
さしあたって問題は、上記の「幸せになれない高学歴女子」に当てはまらないようにするにはどうすればいいか、だ。
自分は「幸せになれる高学歴女子」に当てはまる、という方はこの先は読み飛ばしてもらって構わない。そのまま自分の幸せのために突き進んでいってほしい。
1.不幸を学歴のせいにしない
思考を変えたら幸福度が上がった私に言わせれば、不幸になるのは決して学歴のせいではない。
不幸に思うのは、自分の考え方・態度・生活習慣・外見 などが積み重なった結果である。
学歴という過去に固執せず、自らをよく顧みよう。
他人に不満を抱いたときに「うるさいわね、●●大卒のくせに」などと心の中で思ってしまう人は、学歴にこだわり過ぎである。
自分が学歴にこだわっているくせに「あの男、女を学歴で差別する!キー!!」と不満に思うなんて、傍から見たらお似合いのレベルである。
学歴などという変えられない過去よりも、今の自分をどう幸せにしてあげるか?を考えて行動できる人が、幸せになれる人だ。
2.人間的魅力を学歴・年収・職業などのスペックで判断しない
年収が高いと聞くと、その人が魅力的に見える。
まあ分からなくもない。私は社会人になって思うが、そうそう高い年収はもらえるものではない。
それなりに有能なのだろう。「現在」という一時点において、「稼ぐ能力」というただ一点のみを見れば。
年収が高い、ということは、「今は」「稼げている」というだけである。それ以上でも以下でもない。
「来月も」「来年も」「20年後も」稼いでいるとは限らない。
逆に今はパッとしなくても、素直で、やりたいことを行動に移す勇気があって、時代を読む力があれば将来稼げるようになる可能性がある。
自分は相手のスペックを気にするのに、相手からも同じように値踏みされることに文句を言うのはおかしなことだ。
相手のスペックを気にしている時点で、「高学歴の女とは付き合いたくない」というレベルの男性と同等のレベルなのだ。
人間にはもっと大事な要素があるんじゃないかということと、なぜ自分は相手のスペックにそんなにこだわってしまうのかを、一度本気で考えた方がいい。
そもそも、スペックに関係なく、人間は皆ちょっとずつクズであり、ちょっとずつ馬鹿である。
もし交際相手として値踏みすべき点があるとしたら、私なら「許せるクズさかどうか」「許せる馬鹿さかどうか」を重視する。
そして自分のクズさや馬鹿さをどの程度許してもらえるか。
人間に夢を見過ぎるな。
3.他人のどんな生き方をも受け入れる
「ゆるふわモテOL系女子」を見ると殺意が湧く――とまではいかなくても、モヤッとする人は、
自分の人生の選択に対する責任感が足りない。
どこか自分の不幸を人のせいにしている。
素直に羨ましいなら、その子の真似をすればいい。人間とは単純なもので、髪型や服装・化粧を変えるだけで笑えるぐらいに周囲の扱いが変わるから。
それを体験してみればいい。
逆に「自分はああはならない。それは自分にとっては一番幸せな選択じゃないから」と考えて、あえて”非“ゆるふわ系を選んだならば、「あの子の方が幸せそう!キー!」なんて思わなくなるはずである。
「自分はあんな媚びた格好はしたくないけど、あの子と同じようにチヤホヤされたい」というのは、
「勉強はしないけど試験に合格したい」と言っているのと同じである。
自分にとって一番幸せな「あり方」は何なのか?を真剣に考えてほしい。
そして、考え抜いた先の決断には100%責任を持て。
それを選んだことで起きる出来事は、利益も不利益も、すべて自分が招いたことなのだ、と。
本気で幸せになりたいなら、人は常に本気で選択していなければならない。今日着る服・塗る口紅の色・行く場所・帰る場所。すべてを。
その選択に全責任を負う覚悟でいれば、他人の生き方など気にならなくなるはずである。
「何となく選んだ」人生を歩んでいるから、「他の道の方が幸せだったんじゃないかな」とブレブレになるのだ。
(他人と比較して苦しくなる人へ→他人と自分を比較して落ち込まなくなる方法)
4.自分の評価で生きる
不幸の原因の多くは「他人からの評価を気にしすぎ」なせいである。
「○○するのは悪いことだ」「この○○、良いね」「○○の言ってることって正しいよね」「○○のやることは間違ってるよね」
この「良い・悪い」「正しい・誤り」という評価は、全部「他人から影響を受けた評価」だ。
自己評価の中には、良いや悪い・正や誤は存在ない。
本来の自分の中にあるのはただ「快か不快」、「楽か苦」だけである。
「正しいはずなのに苦しい」「良いことをしてるはずなのに不快」という矛盾を感じるときは、他人からの評価を気にしているだけ。
他人の意見を知らずしらずのうちに「自分の本心」だと思い込んでしまっているだけだ。
自己評価だけで生きる方法は簡単。
「常に自分が最も快く、楽しい選択をすること」だけである。
自分で自分にそれを許すことができさえすれば、それによって他人にどう思われようが気にならなくなる。
(自分の中の他人を排除する方法:常識は幸せになるには必要ないので捨てよう【自分になる方法】)
5.幸せに生きるためには結婚よりも大事なものがあると知る
女性の結婚願望とは根深いもので、
親は娘が生まれた瞬間から「この子はいずれ嫁に行くんだろうな…」と思いを馳せるし、
ディズニーのプリンセスもの以外にもありとあらゆる映画のハッピーエンドは男女が結ばれて終わる。
結婚=絶対善。絶対幸福。あるべき姿。
女の人生は一本道。
…何かの呪いでしょうか。
婚活をするのがすごく幸せで心から楽しいなら、いくらでもやってもらってかまわない。
しかし、そこに「苦しみ」があるのなら、ちょっと待ったと言いたい。
将来の幸せのために「今の幸せを我慢する」思考の人は、いつまでも幸せになれないから。
婚活が苦しくても、「出会いがあるまで我慢する」。
恋人ができたら、不満があっても「結婚できるまで我慢する」。
結婚できたら、不満があっても「子供ができるまでは我慢する」。
子供ができたら、不満があっても「子供が自立するまで我慢する」。
幸せな人生を送る人というのは、「結婚して家庭を築くのが幸せ」という一本道に人生を限定しない。
そんな先入観は無視して、「今」を最大限幸せに生きようとする。
人の幸福度を左右するのは、恋愛でも結婚でもなく「今の自分を幸せにする力」だけである。
婚活が苦しいなら、しない。
幸せじゃなくなったら恋人と、夫と別れる。
たとえ子供がいたとしても、母親が幸せな方が子供は幸せだから。
「レールから逸れる」というカードは常に手元に用意しておくことだ。そうすれば心にも余裕が生まれ、選択肢は無限に増える。
自分の幸せを優先して道を選んだ先に、意図しない幸せが待ち受けていることだってある。
(まだ結婚願望と婚活で苦しむの?「結婚したい」結婚教からの脱却 )
高学歴女性であることのメリット
私は学歴で損したと思ったことは一度もない。
むしろ得することばかりである。
実際に得したことをいくつか挙げてみようと思う。
スペック重視のしょうもない人間を人間関係から排除できる
特に「自分より学歴が上の女とは一緒にいたくない系」の男性とかかわらずに済む。
それってモテないってことじゃん?と言う人がいたらこう言おう。
「自分より学歴が低い女じゃないと安心できないような男に好かれて嬉しいか?それって見下されてるってことだよ。私なら自尊心保てないわ」と。
自分の人生に責任感を持ってる男性なら、学歴関係なく対等な人間関係を結ぶことができる。
私の彼もそうで、学歴の違いで卑屈になることは決してない。お互いに、学歴なんて人間を構成する何万分の一要素に過ぎないことを実感しているのだ。
若い頃に頭を鍛えたので思考力が身についた
高校時代に、京大入試の勉強で「自分の頭脳の限界」に挑み続けられたのは、結構でかい。
おかげで地頭が強化されたと思う。
それに、京都大学では「自由の学風」のおかげで自分のやりたいことを突き詰めて考えたし、誰にも流されない、自分だけの道を歩むことの喜びを知った。
幸せを掴むのに一番大事だったのは、「答えの出ていない問いを自ら立て、それについて自分なりの答えを見つけ、実践する」ことだった。
今の私が大きな幸福を感じられているのは、学生時代に培ったそういう思考力がかなり役立っていると思う。
ある程度の信用が得られる、ナメられない
誰に対しても自分から学歴は言わないのだが、
周りの人が「実はこの人ね!」と勝手に暴露してしまうことがある。
大学名を知ると、相手からの扱いがやっぱり変わる。
会社の同年代の男性は敬語になるし、年配の方は「下町のどこにでもいそうな女の子」から「京大出のお嬢さん」へと認識を変える。
必要以上に固執する人はうっとうしいけど、大抵は素直に「へぇ」と感心してもらえるくらいである。
京大卒の女だとちょっとした「変人」扱いにもなり得るが、それはそれで面白い。
学歴なんかハナクソ程度、と言いながらも、やっぱりナメられないことで自尊心が保たれる一面は正直あるのだ。
(会社員ですと言ったら腰掛けOLとナメてくる奴はどこにでもいるからね。)
まとめ
要するに、高学歴女子が幸せになるには
他人の声に惑わされないように、自分のやりたいような生きればいいってこと。
(どんな学歴の人でも同じだけど。)
高学歴の女性は生きづらいとかいう謎理論の風潮の中で、その大学を選んだ自分の意志の力を褒めてあげてほしい。
私には意志がある。
それさえあれば、あとはそれに従って生きるだけである。
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