周囲と自分を比較してしまい落ち込む人へ
他人と自分をどうしても比較してしまい落ち込んでしまう人へ。
かくいう私も、昔は他人と自分を比較しまくる人間でして、そのせいで「うつ病」になった経験あり。
ところが今では「唯一無二の自分最高ー!!」と幸せいっぱいに過ごしている。
他人といちいち比較せず、「自分は自分」と常に満足していられる秘訣を編み出したからだ。
その秘訣とは?
遺伝子レベルで、自分は他人にはなれないと潔く認める。【桜は薔薇にはなれない】
あの子は人目を惹く真っ赤な大輪の薔薇。
あの人は淡く温かく人々を見守る桜の花のよう。
「自分はなんであの人みたいになれないんだろう?」
…いや、なれるわけないんです。
他人と比較してしまう人は、何でも「努力次第では何でも手に入れられる」と思っている節がある。
桜の花として生まれても、努力すれば薔薇のように大輪に咲けるはずだと思い込んでいたり、真っ赤な花を咲かせられると思っていたり。
「でも、自分には能力が足りないからあの薔薇のように咲けないんだ…」と落ち込んでいる。
冷静に考えると、それはおかしな考え方である。
いいか、あなたは桜の花に生まれついたのだ。
遺伝子レベルで、薔薇に姿を変えることは不可能だと思え。
何回生まれ変わっても、あなたは薔薇に変わることはできない。
あなたは努力次第では「今よりも美しい桜」にはなれるかもしれない。
でも薔薇にもチューリップにも、朝顔やコスモスにも、どう足掻いてもなれないのだ。
あなたに必要なのは、「自分として生まれた以上、他人にはなれないという諦め」と「生まれついた遺伝レベルでの違いを認める」ことだ。
あなたは、例えば動物のチーターを見て「私もあんなに足が速く生まれたかった…」と落ち込みますか?
あなたの悩みは、それと同じレベルの悩み。
自分とは違う生き物を見て「なんで私の方が劣ってるんだろう」ですって?
いやいや、当たり前。超絶当たり前の話。
お互いの能力が同じだったら二人はクローンである。
どうーしても赤い花に生まれたかったのなら、
「桜のような淡い色じゃなくて、どうしても赤い花に生まれたかった」
という望み自体を消し去るしか、悩みを解決する方法はない。
だって、どう足掻いたって望みはかなわないのだから。
そのためには、先述の通り「諦め」と「潔く負けを認めること」が必要である。
「おみそれしました。生まれつき赤い薔薇として生まれたあなたには負けました。」と。
頑固に負けを認めないから、いつまでも自分との比較対象にして苦しいのである。
私はあの人のようにはなれない、と心から認めることができれば、実はものすごく心が軽くなる。
▼他人へのドロドロした嫉妬心を解消する方法
私はうつ病になって一番病んでいた頃、自分の容姿にものすごいコンプレックスがあった。
「自分は世界で一番ブス」だと本気で思っていた。
だから容姿の良い人を見る度に、自分と比較して心がチクチクと痛んだ。
でも今では「あの人は薔薇。あの人はスズラン。私は私という花」という考え方を身につけ、心乱されなくなった。
「そうさ僕らは世界に一つだけの花」という思考は、
綺麗事のように聞こえるが、本当に人の心を救うのである。
私は、自分に栄養を与えて清潔を心掛け、心がわくわくするような色の服に身を包めば、いくらでも幸せな気分になれることに気付いた。
この幸せは、誰とも比べることのできない、自分だけのものである。
他人に生まれ変わってこの幸せを捨てるぐらいなら、私は今のままの自分がいいと思っている。
それに、不美人に生まれたとしても、手をかければ好印象は作れるものである。
自分の顔の造形、体型についても、
化粧を頑張って「お、このアイシャドウの塗り方は良いかも」と発見したり、
「スクワットしたらちょっとお尻が引き締まった!」といったように手をかけていくと、
自分以外の誰かのようになりたい、という気持ちはなくなっていった。
「今日のメイクは(自分にしては)可愛い」と思えたり、
(美醜ではなく)母が子を思うような「かわいい」という愛着が自分自身に対して湧いたりする。
筋トレを頑張れば、お風呂で全身鏡を眺めて「ちょっと綺麗になった?」と思ったりもする。
そして自分が自分を認められるようになると、周りの目も変わった。
そうしていつしか見た目へのコンプレックスは解消されていった。
▼着る服や服の色次第で幸福度が変わったりするという話
異なる人間が存在することはありがたいことだと思え
そもそも、あなたは周囲の全員が自分よりも劣った能力値だったら気が済むんですか?
「私以外みんなバカ」な世界で、幸せになれますか?
私ならそんな世界は恐ろしくて絶対に住みたくない。
全員があなたの能力以下の人間ばかりだったら、この社会は崩壊します。
だから、比較して落ち込むんじゃなくて、自分とは違う能力を他の人が持っていることに感謝した方が良い。
全員の凸凹な能力が補い合ってこの世は成り立っているのだから。
この世に薔薇の花しか花の種類が存在しなかったら、
春のお花見はどこに行けばいいんですか?
母の日には何を贈ればいいんですか?
お墓には何を備えればいいんでしょうかね?
お互いの存在に感謝しこそすれ、比べて落ち込むのは馬鹿らしいことだ。
「皆、違ってくれてありがとう」ぐらいに思えるのが健全である。
職場で誰かと比較してしまう場合
会社で働いていれば、周囲にはいくらでも自分と違う能力を持つ人がいる。
人懐こい人柄であったり、コミュ力であったり、未来のリスクを見通す力であったり、斬新なアイデアを出す力であったり。
出来る人は苦も無く自然にできるのだから、できないことは出来る人に任せればいいのだ。
そして自分は自分で自然に出来ることをやっていればいい。
会社という組織が存在するのは、そうやって人間を適材適所に配置して効率的に利益を上げるためである。
私は、できないことを出来るふりはしない。自分も他人もごまかさない。
「私はこういう仕事はここまでが限界で、これなら頑張ったらできそうです」と行動で示す。
わからないことは上司にすぐに聞く。
「私の出る幕じゃないな(ぶっちゃけ、出来る気がしないしやりたくないな)」と思ったら身を引くし、
自分がやる意義を感じる仕事の方に力を入れる。
そしたら出来ることの延長線上のことをどんどん任されるようになるし、伸びしろも伸びていく。
「できる振り」をして自分を欺こうとするから、それを見る人も欺かれた気分になり「そんなこともできないのか」と言われてしまう。
別に精一杯、100%の力でやらなくてもいい。
100%の力を常に出さないと評価されないということは、その仕事内容はあなたに向いていない。
それよりも、70~80%の力でも満足してもらえる結果を出せる仕事の方が素質がある。
あなたが仕事で周囲よりも劣っていると感じてしんどいのは、人事の配置が下手なせいかもしれない。
「個人の成長の機会」とやらを押し付けて本人が苦手としていることを無理にやらせる会社は、少なくとも本質が見えていない。
なぜなら、会社にとって何より重要なのは会社の成長であり、個人の成長ではないはずだからだ。
「できないことほど頑張る」なんてしなくていい。あなたができない分野は、他にあなたより出来る人が絶対にいるから、そのことに感謝しつつ任せておけばいいのである。
単純作業が好きで得意な人もいれば、苦痛でしかない人もいる。人と話していないと苦痛な人もいれば、一人のほうが落ち着いて仕事できる人もいる。
私なんか、「おはようございます」と「お先に失礼します」以外、会社内で一日中誰とも会話しない日だってある。
それでストレスフリーに仕事ができている。
淡白な人間関係が心地良いのに頑張って人と仲良くなろうとしなくていいし、日々のルーティーンをこなすのが心地よいなら挑戦的なプロジェクトへの参加には名乗りをあげなくて良い。
あなたが「何でもない仕事」と思っている仕事をありがたく思ってくれる人が必ずいるのである。
自分がやっていることを、「こんな仕事、大したことない」と思わないようにしてほしい。
どんな仕事にも向き不向きがあって、逆立ちしてもあなたと同じことが出来ない人がこの世には大勢いることを知っておいてほしい。
誰か(他人)を目標になどしない
「あの人と比べて自分はまだまだだ。あの人みたいになりたい!」
という、ポジティブな意味での「他人との比較」について。
他人をよく知りもしないのに、安易に尊敬したり憧れたりするな。
「尊敬する人は?理由も合わせて教えて下さい」
就活ってこんなこと聞かれるんですか?
私が面接官ならそんなことは絶対聞かない。
そもそも、そんなこと聞いてくる会社には入りたくないけど。
尊敬する人がいるのは素晴らしい!
具体的に目標にしたい人物(ロールモデル)を見つけるべきだ!
憧れのあの人に近付くために頑張るぞ!!
…いやいや。そんな狭い世界に住んでて楽しいか、って話。
「あなた自身」という唯一無二の無限の価値を持つ広い広い宇宙を無視して
”尊敬する人”などという赤の他人の真似して生きろというんですか。
私なら、もし尊敬する人がいるかと聞かれたら「一番尊敬しているのは自分です」と正直に言うしかない。
「自分の頭で考えられる人間と、尊敬する人の考え方に追従して行動する人間、どっちを採用したいですか?」と逆に聞いてもみたい。
多分組織人としては後者のほうが都合がいいんだろうな。だからそんな質問をするのだろう。
でも、尊敬ってある意味、相手への侮辱なんですよね。
ただ、自己認識を適切にできていない自意識過剰な人間は、尊敬されると舞い上がってしまう。
私もそうだった。学生時代は部活で後輩からの尊敬の眼差しを集めることを快感に思っていた。
そういう人は、尊敬することは「善」だと思っている。
でも、自分や他人のことをフラットに正当に評価できている人ならば、
人間は「尊敬に値する人・値しない人」などで分けることはできないことを知っている。
だから、誰かに尊敬されても複雑な気持ちになる。
なぜなら、尊敬してるってことは「私はあなたのことをよく知りません」ってことだから。
この世に大した人間などいない。
だから、誰かを尊敬しているということは、その人を「憧れという色眼鏡で見ている」に過ぎないのである。
どんな人間も、所詮は大したことない。比較するだけアホらしい
私は、他人にはそう簡単に憧れや羨ましさや嫉妬心を抱かない。
人間って皆、内面はそんな大したことない、と知ったからだ。所詮はどんぐりの背比べなのである。
成果を上げるというのはその人の行動の選択の結果であって、その人の人間としての価値ではない。
「人間は大したことない」という見方は、他人を貶めているのではない。
バカにしているわけでもない。
むしろ色眼鏡なしに人を正当に評価するということなのだ。
「人間はみんな大したことない」ということは、
「人間はみんな大したものだ」ということとほぼ同義になるのである。
ちょっと何言ってるか分からないですかね。
「羨ましい」とは、相手のほんの一部分だけを見ているに過ぎない。
人間というのは、深く関わっていけばいくほど不完全なところが見えてくる。
私だって、父や母や恩師、今まで会った人たちに尊敬すべき面があることは分かっている。
でも結局彼らとて、長所の裏返しは短所だったり、ひょんなところに弱点があったりで、人間臭い人間だ。
最終的には、「この人はすごい人だなぁ」というよりは「人間って一長一短あって、愛おしいなあ」という感覚に行き着くのである。
そのような見方をすれば、仕事ができる人を見ても、成功して稼いでる人を見ても、美人を見ても自分を卑下することはない。
「へえ、この人はそういう能力を持って生まれて、そういう行動を選択したんですね。」と、冷静に事実を把握するだけである。
いくら社会的に成功していても、その人が家で奥さんや旦那さんのことを大事にしているかどうかも知らない。
もしかしたらモラハラ夫/妻かもしれない。
子供に「今日のサッカーの試合、見に来てくれる?」という期待を「いや仕事だから」と無視して仕事に向かってしまう人かもしれない。
そんな相手のことを何も知らないのに、私には「あの人が羨ましい」なんて全然思えない。
その人の底も知らないくせに、憧れたり羨んだりするだなんて、ちゃんちゃらおかしい。
簡単に人を羨ましいと思える人は、人間に期待しすぎ。他人に夢見すぎ。
今の私は「あなたは素晴らしいです」なんて言われても嬉しくもなんともない。
「いや、一体私の何を知ってるの?」と愛想笑いするだけだろう。
そう。
誰でも、一番よく知ってる人間は「自分自身」なのだ。
だから一番信頼できるのも、一番尊く思えるのも自分自身でしかないはずだ。
最も尊んで敬うべきなのは、本来は自分自身のはずなのだ。
羨ましさは自分を苦しめるだけ。すぐに捨てること
誰かと自分を比較して、
「ああなりたい」という人間がいるならば、考え直したほうがいい。
そんな、内面もよく知らない赤の他人を目標にしたってあなたは変われないし、その人のようにはなれない。
ならなくていい。
なぜなら、その人自体、あなたと同様、別に大した人間じゃないからだ。(あなたが知らないだけで。)
その人が尊敬に値するような人格者ならば、その人自身が「私はそんな大した人間じゃないんですよ」と痛感していることだろうと思う。
憧れる人に近づく努力は不毛だ。
自分が自分自身に無視される苦しみしか生まない。
「私は本来はこんな人間だけど、そのままじゃいけない。あの人のようにならなければ!」と思うことは、偉いことでもなんでもない。
ただあなたの「本来の自分」を抑圧するだけである。
誰かの真似をしようとすればするほど、唯一無二であるはずの自分自身が苦しんでいくと思ったほうが良い。
…でも、誰かの真似をするって楽なんですよね。
楽だから、皆「ロールモデル」を探しまくるんだと思う。
自分が自分になる努力は、しんどいから。
自分で一つ一つの選択肢を考えて選び抜いていくなんて、そんな地道なことは時間がかかるし成功するとも限らないから、面倒くさいんですよね。
自分だけの道を選び取り、その選択に責任を持てば、他人と比較しなくなる
例えば、今日は休日だとする。
人生は、その日、朝何時に起きるか、そして起きてまず何をするかから変わっていくこともある。
でもそんなことでいちいち自分だけのやり方を模索していくなんて、回り道でまどろっこしくて面倒くさい。
だから周りを見て、「こうするといいですよ!」と模範を示してくれる人と同じことをしてみる。
そして束の間の安心を得る。
それでも結局その「模範を示してくれる人」には及ばず、それどころか周りのどこにでもいそうな人々よりも自分が劣っている気がして、何者にもなれない自分自身に落ち込む。
自分で自分の生き方に責任感を持っていないせいだ。
「自分以外の、何かしらの”柱”に依りかかりたい」と、無意識に他人の思考に依存する気でいるせいだ。
「私は誰にも流されず、私の生き方を独自に考え抜いて選択してきた」と、
自分の選択に責任を100%負う気概があれば、他人と比べて悩んでいる余地などなくなる。
もちろん、他人の行動や考え方が参考になる場合もある。
私もよく他の方のブログを読んで自分の考え方を切磋するのに利用させてもらっている。
その方が、思考を言語化する上で近道になることもあるから。
それに、うつ病になった時はさすがに両親の言葉を素直に受け入れて抗うつ薬を飲んだ。
切羽詰まったときは周囲を頼るのが良い場面だってある。
でも、誰かの意見に全面的に同意することはない。
最終的には自分が自分なりに考え抜いて結論を出す。
誰かと比べて、誰かの考え方に追従していればいいなら、そもそもこんなブログは必要ない。
「こんな偉い人がこんなこと言ってましたよー、すごいですねー、見習いましょうねー」と紹介しておけばいいだけなのだから。
自分の本音を聞く。変わりたいときは自分だけを見つめること。
周りが何をしているか?周りと比べて自分はどうか?
が気になってしまう人は、自分の本音の声を無視しているのだ。
自分の声だけに耳を傾けてさえいけば、周囲の雑念などどうでもよくなるのに。
大学時代の私がまさにその悪い典型だった。
Aちゃんは美人で英語ペラペラで大手企業に内定が決まっているのに、私はブスで英語力も無くて、就活すらやる気が起きない。
B君は夏休みに私と同じ発展途上国に行ったけど、現地でビジネスを始めている。一方で、私がやったことは現地で友達を作っただけ。
周りの人がやっていること、成し遂げたことが気になって気になって、自分って何なんだろう無価値なんだろうか、と思い悩んでうつ病になった。
変わりたいなら、自分を見ろ。
自分の声を聞け。そのためには、一人になれ。
SNSを見るな。友達と話すな。徹底的に孤独になれ。
※特にSNSは、無意識に他人の価値観を植え付けられるからおすすめしない。
孤独になると、自分の本音にうっすら気付き始める。
私は気付いた。
自分は大手企業に就職することを望んではいないことを。
自分はビジネスになど興味がないことを。
AちゃんやB君を羨ましく思ったのは、ただ「すごい」と思われたかったから、「充実してそう」な人に見られたかったからだけだった。
要は、ただの承認欲求だった。
本当は彼らがやっていることを本心から「やりたい」わけではなかったのだ。
変わりたい時ほど、自分の内面を探る必要がある。
問題なのは、「今の自分」がどこへ一歩踏み出すかだ。
自分の枝葉をどうやって、どこまで伸ばすか。それとも太く長い根を張っていくことに注力するのか。
持って生まれた蕾をどれだけ大きく咲かせるか。それとも小さな花をたくさん咲かせるのか。
大事なのは自分でそれを選択すること、それだけだ。
自分を見つめるためには、仕事や学校を休んで療養したっていい
もし、周囲との比較に心が疲れ切って無気力になってしまったのなら、一度休むのも手である。
「休んでたら皆に追い越される」なんて思わなくていい。
周りと比較しまくって、心が病んで、うつ病になってしまうこともある。
そんなときは、義務感や焦りを捨てて、心をしっかり休めることだ。
自分の良さは一生分からない
最後に。
長々と書いたけれど、実践が難しければ、漠然とこう思っておくと良い。
「人間、自分の良い所は自分では分からないもの」と。
つまり「自分には、自分では一生かかっても気づかない魅力や価値がある」のだということ。
これは、私が肌で感じる感覚である。
大した仕事ができていないと思っても、「君はよく出来るから」と評価をもらえることがある。
自分本位で不美人なのに、両親やパートナーに大切にしてもらっている。
コミュ障で自分に何の自信もなかった私に「○○ちゃんがいてくれてよかった」と言ってくれた友人たちがいる。
そんなときに、相手に「私に一体どんな価値を見出してくれているの?」と聞いたところで、
「あなたがあなただからだよ」という意味不明な答えしか帰って来ない。
彼らにも言語化ができないのである。
つまり、簡単に言葉では言い表せないような存在価値が、人間にはあるのだ。
「この人ったら、気は小さいし自信無さげだし話下手だしちょっと変人だし、でも憎めないの。なんでかしら。」という、
「でも憎めない、なんでかしら」というのが何だかんだで人間の本質的な魅力であるように思う。
人間、自信が持てなくて当然なのかもしれない。
だって自分の存在価値は、自分が一番理解できないのだから。
誰にも言語化できないのだから。
だから他人と比べて、他者評価に頼ってしまう。
自己肯定感なんてどう養えばいいか分からない。そりゃそうだ。
でも、分からないからこそ、
「多分私には存在価値も魅力もあるんだろう。うん、きっとそうだ。」
と思い込んだもの勝ちである。
そして、調子に乗ってそう思い込めば思い込むほど、人生は不思議と順調に進む。
「私の長所や強みって何だろう?」なんて考えてもどうせよく分からないし無駄である。
面接であなたの長所について聞かれたら、とりあえず自分の解釈を述べつつ、
心の中で「そんなものは人事であるあなたが見出してください」ぐらいに思っておけばいい。
人間は愛おしい。
他人と比べて苦しむあなたが、心の底で求めていることは、
実は、周囲の人よりも抜きん出ることではなく、
「あなたの不完全さを許されること」なのではないだろうか。
あなたに必要なのは、他の人より優れることではなく、
等身大のあなた自身を自分が許すことであって、
それができさえすれば、他には何も必要ないことに気が付くはずである。
▼人と比べることなどやめて、今すぐ幸福になろう
▼何かと自分が悪いと思いがちな人へ