ブログとは泥臭い真剣な遊びだ。キラキラした世界を目的にしてはいけない。

「たまに訛り、出ますよね」

関西弁が「訛り」と言われることを知ったのは東京に来てからだ。

 

そもそも私は関西弁を隠していない。

むしろ標準語に染まらないように意識してたつもりだった。

 

銀座に毎日出勤していると、

生活の中から泥臭さを排除して

上澄みのような空気の中で生きることこそ至高、

と思いそうになる。

 

東京にかぶれてきたな、やばいやばい、ということである。

 

 

目次

「その他大勢」が望むような凡庸な夢に疑問を抱く

上澄みの世界の仲間入りをしたいと、多くの人は願う。

 

地面の土でも空でもない、その真ん中にそびえる人工的なキラキラした洗練された何かに囲まれて生きたいと。

それが上昇することなのだと。

 

多くの人がそれを願うということは、

それと同じような願いを持ってしまうと、「その他大勢」と同じような生き方にしかならないということだ。

 

だから私は、キラキラしたものに惹かれる凡庸な自分を自覚しながらも、

本当にそれでいいのか?と自問し続けている。

 

 

就職する前は、資本主義が嫌いで

民間企業になんて死んでも入るもんか!

私は山の中で絵を描いて死んでいくんだ!と思っていたのに、

 

今やクレジットカードのランクが上がったらヤッター!昇給したらヒャッハー!

洋服、バッグ、化粧品大好き!飽くなき物欲、

ブログで独立できたらなあ、

都心のマンションに住めたらなあ、

白いベランダの手すりにもたれて昼間からシャンパン飲んだりして、

 

……という、どこにでもいる、ザ・凡庸なOL思考。

 

 

そういう自分に疑問を抱く。

 

私が一番やりたいことは、何だったかな?

それは、幸せになることだ。

 

でも、私は既に幸せである。

下町で彼氏と同居して、愛情深く楽しい生活を送っている。

 

幸せになったら、次は何をすればいいんだっけ?

ここは、大事な分岐点である。

 

どんなに今が幸せでも、現状維持するという選択肢は浮かばない。

なぜなら人間の欲望は底なしだから。

もっと、もっと幸せになれるはずだ。

そこで、想像力が貧困な人間は、どこかで聞きかじったような「何かキラキラした世界」を、自分が目指すべきより大きな幸せだと考えてしまう。

それは仕方がないことだと思う。

 

でも私は気付いてきている。

キラキラした上澄みの世界は、それ自体を目的にするべきものではないのだと。

人々に求められる以上のものを与えてきた対価として、付随的に得られるものに過ぎないのだと。

 

そうすると、私のやりたいことが見えてくる。

過去の、「うつ病を治す方法」のカテゴリー記事を読み返してみる。

 

そうだった。私がブログを始めた理由。

それは、まだこの世にいる、病んだあの頃の自分たちをいち早く救うためだ。

 

泥臭い遊びを取り戻す

キラキラした世界に参加することは、色んな欲求を満たしてくれる。

承認欲求、物欲、自己肯定感(?)など…

 

私はキラキラ女子よ!キラキラした世界にふさわしい女なの!

そういう気持ちが満たされるのは快感だろう。

しかし、快感はいつか飽きる。そして感覚が麻痺してくる。

もっと大きな「快」が欲しい。

そして、よほどの精神力を持ち合わせて生まれてこない限り、内側と外側が乖離していく。

心は知らないうちにむしばまれていく。

 

一方で、

本当に楽しい、心を満たす遊びというのは、「学び」と「創造」である。

人間は、学びを得続け、創造を続ける限り、人生に飽きることは無い。

 

ビジネスを創ることでもいい。

誰かとの愛ある関係を創ることでもいい。

物を、思想を、文章を創ることでもいい。

 

そしてそれらは、泥臭い一歩から、

それもひとさじの「遊び心」をもって始まる。

 

 

まずは転ぶことから

泥臭いといえば、

20代も後半、いい大人になったくせに、最近私はよく転ぶようになった。

 

この夏も怪我をした。

自転車で下り坂で転んで、あごが切れたので病院で縫う羽目になったのだ。

 

転ぶことが増えた理由は、彼に「泥臭い遊び」に連れて行かれるようになったからだ。

土手。

荒磯。

山道。

サイクリングコース。

スキー場。

 

子供の頃は岩場を駆け回るなんて余裕だったのに、

大人になって随分どんくさくなった。

どこに遊びに行っても、私は必ず一回はぶざまに転んでいる。

 

 

都会で普通に過ごしていれば、道で転ぶことはまずない。

でも私は、性懲りもなく転ぶ危険のある場所に向かう。

なぜか?

それは、「転ぶこと」で自分の身の程を知るのが面白いからだ。

 

「へえ、私、こんなことができないのか。」

「自分のレベルってこれくらいなのか。随分買いかぶっていたものだな。」と。

 

 

転んで手のひらを泥まみれにすることは、自分の限界を知ること。

 

あれ以上のスピードを出してはいけなかった。

あんな高い場所は自分には不相応だった。

それを、身をもって知ることになる。

それは、目が覚めるような学びであり、発見である。

 

こういうことは、銀座のオフィス街のようなキラキラした清潔な場所にいては気づけないことだ。

 

自分の身の程を知ることは、成長のスタートだ。

だから私はできるだけ多く転んで、肥大した自画像を削り取り、自分の本当の全体像を把握したい。

すべてはそこからしか始まらない。

 

 

普段の仕事でもそうで、肩書がついて本当の自分の姿を見誤る人が大勢いるだろう。

本当はあれもこれもそれもできないし、何もかも不完全なくせに。

だから、あえて「出来るかどうかわからない挑戦」をして周囲に自分の判断力を測ってもらったり影響力を試したりする。

そして、「あ、私こんなレベルか…」と自覚する。

 

 

このブログを書くことも、その泥臭い遊びの一つだ。

一文字一文字が創作であり、ネットの海の中での自分のレベルがはっきりと分かる。

だから、学びは尽きないし、すごく楽しい。

 

自分にどれほどの行動ができるのか、やってみては身の程を知って落ち込むこともあり、

都合の良い夢は最初は打ち砕かれる。そこからがスタートである。

 

次第に自分の立ち位置を冷静に見られるようになり、小さな進歩が大きな喜びになる。

 

たぶん、他のブログ執筆者から見れば「やる気あるの?」と言われそうな亀の歩みであるが、

私は自分が楽しくやることを第一にしているので、良いのである。

「幸せに生きる方法」を説くブログなのだから、自分が苦しくなっては元も子もない。

 

 

 

成長の過程というのは泥臭い。

 

洗練された作品1つ作るまでには、何十個、何百個のゴミクズ行きのアイデアができる。

創り上げる過程で、自慢したりネタにできるような目立った出来事が起きるわけでもない。

 

泥臭さとは、孤独なのである。

 

 

でも、そんなひとつひとつを踏みしめていった人だけが

両手を泥だらけにして誰も踏み入ろうとしない道を掻き分けて進んだ人だけが得られる

狂気じみているほどの楽しい世界がある。

 

 

 

この世界は、昔の私が知らなかった世界だ。

うつを乗り越えて、一つ一つ心と体を掃除してきた結果だ。

 

それなら、これから先も

まだ私が知らない世界がある。

 

 

いつの間にか、

転ばずに岩場を駆け回ることができるようになってるんじゃないのか。

 

気がついたら、

上澄みではなく確固とした土台の上で

人々の幸せに貢献できる幸せに浸っているんじゃないのか。

 

 

 

そんな夢を見てしまう。

 

 

 

 

正直言って、私は泥臭い場所は好きではない。

 

荒磯ではなく白い砂浜で遊びたいし、

雪山は暖かな屋内から眺めるにとどめたいし、

Tシャツではなくシルクのブラウスを着ていたい。

 

 

でも、それではいつまでも

私は私の域を出ないのだろう。

 

 

だから私は、よっぽど嫌なことでなければ、

気が進まないことをやってみる。

 

その結果、

「やっぱり楽しくなかった」「うまくできなかった」

と気分が沈むこともあれば、

 

「こういう楽しさもあるのか」

「意外とありやん」

と、新しい発見が得られることもある。

 

 

 

洗練された場所には多くの人が憧れる。

私もその有象無象の一人である。

 

でも、今の私がやるべきなのは

ただ憧れることではない。

 

それだけは分かっているのだ。

行動しなければならないことを。

 

 

だこら、まだ知らないどこかにたどり着くために、

何かが見えるようになるまで、

泥の中を自分の直感を頼りにかき分けるような作業を繰り返していく。

 

 

「ここは素敵だよ」

「こんな世界が見えるようになるよ」

なんて、誰にも教えてもらいたくはない。

 

二番煎じの生き方など、今の私には必要ない。

 

 

泥臭さを取り戻していく。

ただ憧れるよりも、そうやって狂っていく方が、私の望む生き方。

 

このブログの運営者

生きづらさの解消方法・幸せに生きる考え方・うつ病の治し方をお伝えしています。
過去にうつ病になり、考え方を変えることで完治させた経験あり。

典型的なINFP人間。
モットーは「自分の幸せを第一に生きる」。
現在会社員をやりながらADHDの夫と暮らしています。

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