うつ病の人は優しい。健常者よりもよっぽど人類愛と博愛に溢れている。

うつの人は優しい。

なぜなら、彼らはどん底の苦しみを知っているから。  

 

うつになったとき、 人は優しくなる。

なぜなら、悲しみや苦しみに敏感になり、

人々の嘆きの声が誰よりもはっきりと聞こえてくるから。      

目次

私がうつだった頃、悲しい出来事に敏感だった

うつ病だったころ、

私はニュースを見ることができなかった。

新聞も読むことができなかった。  

 

なぜなら、そこには悲しい話がいっぱい詰まっているから。

 

ふとした拍子に、災害や事故、事件などのニュースを知ってしまうと、

どこからともなく被害者の泣き声が聞こえてきて

涙がどうしようもなく止まらなくなる。    

 

 

だから私は、ニュースを見るのをやめた。

(家に居ながらにして世俗を断つ、まさにプチ出家である。→うつの時のプチ出家のすすめ)  

 

どうして「普通の人」は「普通の顔」をしてあんな悲惨な出来事を見ていられるのだろう。

私がおかしいのだろうか。

皆がおかしいんじゃないだろうか。

……。    

 

母にそういう話をすると、

「皆の感覚がおかしくなってるだけ。

本当は平常心で聞けるようなもんじゃないはず」

というようなことを言ってくれた。      

 

大学に通っているときに、乗っている電車で人身事故があり、

あの時は精神状態がパニックになりそうで危なかった。  

涙が流れてくるのを隣の乗客から隠すのにせいいっぱいだった。  

   

 

うつの時は、常に嘆きの声が聞こえてくる。

誰の声?

きっと、どこかで泣いている人なのだろう。

日本か、外国か、この世のどこかで。    

 

そんなに苦しいなら、 神様、私の身を切り刻んでも良いからあの人たちを幸せにしてあげてください。  

そんな風に泣きながら祈るのだ。  

 

うつの時は、博愛と自己犠牲精神が高まる

うつのときは、自己肯定感がどん底になる。  

 

自分なんてどうでもいい。

自分の幸せなんて考えたくもない。  

消えたい。

消えた方がこの世のためだ。 そう思い込んでしまう。    

 

うつの人の基準は、 「この世にとって、周りの人々にとって、自分は必要かどうか」だ。  

「皆のため」になるのなら、私は消えたって良い。

皆にとっても、その方がありがたいのだろう。

――本気でそう思っているのだ。  

 

そういう人類愛と自己犠牲精神が、自殺という悲劇を生む。  

 

 

そんなときのうつ病者の心理は独特である。  

どこか清浄で、神聖な感覚なのだ。  

 

彼らが死を考えるとき、 そこには「罪を償う」という、前向きで爽やかな動機がある。    

生きていることの罪悪感が、 「死」を考えることで癒されるのだ。  

 

私が死ぬことで、この世が少しでも良くなるのなら。

そう思って、本当に線路に飛び込んでしまう人がいる。      

 

だけどそれは、「正解にならない」選択だ。  

 

人生における行動というのは、基本的には何を選んでも正解も間違いもない。

逆に言うと、何を選んでも正解にも間違いにも転びうる。

(ここでいう正解/間違いとは、幸/不幸のことだと私は思っている)

そして、何を選ぶかは個人の自由である。  

 

しかし、唯一「絶対に正解にならない」選択肢がある。

それが自殺なのだ。  

 

生きてさえいれば、「間違った」と思った選択肢も、あとで挽回できる。  

しかし、死の続きは無であり、その先は間違いにも正解にもできない。

 

死によってあらゆる可能性を閉じてしまうのは、何というか……間違いというより、「惜しい」と思う。  

(自殺の善悪について考えてみました→人はいかに苦しい時でも生きるべきか?)  

 

うつの人が優しくて、私は救われた

そんな、死によって癒されるような苦しみを抱えながら生きている人々は、

もう生きているだけで崇高な存在である。  

 

我ながら、私もあの頃の自分には頭が下がる。

よくぞ生きていてくれた、と。    

 

 

うつの頃は、 いくつかのうつ病の人のブログや掲示板の書き込みなんかを拝見した。  

すべからく皆、心が深く、優しかった。    

彼らの発言には、こんな苦しみ誰にも背負わせたくない、という気持ちがにじみ出ていた。  

 

皆生きていた。

生きているだけで苦しいはずなのに、 他のうつ病者に対して優しい言葉をかけてくれる。

(うつ病を経験すると心が広くなる現象について→うつで得られる心の器)    

 

私はその皆さんに、賛辞を贈りたいと思う。

そして、優しい言葉を残してくれた皆様の苦しみが癒えることを願う。    

 

うつ病の頃の優しさを取り戻したい

うつが治り、日に日にあの頃の敏感さが薄れてくる。  

悲しいニュースを真顔で聞けるようになり、 苦しかった日々の記憶が遠くなっていく。  

 

私には、あの頃の息苦しさはもうない。

でも、相変わらずまだ多くのことが怖い。  

 

大多数の人ができること、楽しいと感じることが、私にとってはそうじゃない。  

そんな不完全な自分。

ありたい自分とズレている自分。  

 

それでもいい、と少し自分を許す気になっている今、 この世は少し私に優しい。    

 

よく見ると、誰でもどこか少しおかしくて、 私だけが変なわけでは決してない。  

だから、許されないことなどそうそうないのである。    

 

うつ病が完治して約2年半。  

私には、誰かを絶望から救いたいという夢がある。

紛れもなく、うつを経験したからこそ生まれた夢だ。    

 

それを叶えるには精神のエネルギー、そして人類愛が必要だ。

エネルギーはどこから湧いてくるのか。

人間への愛はどこから湧いてくるのか。      

 

私にはもう、あの時のような嘆きの声たちが聞こえない。  

この世の悲しみばかりをすべて拾っていたような、 脆く敏感な耳は失ってしまった。

 

これが元気になる引き換えに失ったものということか。  

色々なことに鈍くなり、 悲しい出来事に対する感受性が薄れ、 自分本位になるということだ。      

 

 

私は疑問に思う。  

果たして、 うつ病の人の精神よりも、健康な精神のほうが「健全だ」と言えるのだろうか?    

 

人の悲しみに寄り添うという意味では、 うつ病の人の感受性の方が、 よっぽど他者に寄り添える「まとも」な精神状態なのじゃないだろうか。      

 

うつ病の頃の私には、 真珠のような濁りなき芯が確かにあった。  

その志が、思考を自殺へと向かわせる。    

 

自分本位な人は自殺しない。  

他人などどうでもいいと思ってる人は、 何があっても自分だけは生き延びようとする。      

 

うつ病は、博愛、人類愛の稀なる発現なのではないだろうか。  

 

……。

 

       

 

うつを治してからの私は、 自分に優しくなって、 自分を愛するようになって、 あまつさえ幸せだとすら感じるようになって、  

そして

――夢から遠ざかったのかもしれない。        

 

 

あんなにも強く、同じ苦しみを味わう人を救いたいと願っていたのに、  

今では私は、自分のことに精一杯だ。  

 

もう、あんな息苦しい思いをしたくない。

眠れぬ夜を過ごしたくない。  

と、自分だけの幸福を維持しようとして。    

 

 

でも、それを言い訳に 自分の心底に横たわる願いを無視する自分でいたくない。      

だから書く。

うつうつとした気分の人でも読めるようにと願って。  

 

行動はささやかだが、それが私の今の精一杯だ。        

 

四年前に、胸の痛みに耐えていた自分に恥じぬように。

この苦しみから人々が救われることを祈ったあの頃の自分に。  

その苦しみの経験によって、自分は人々を救ったのだと言えるように。    

 

そうでなければ、私ではないではないか。          

 

 

 

苦手だった暑苦しい季節がやってきた。  

でも、うつを越えて、 不思議と暑さが不快ではなくなった。      

 

幸せを手にしたここが終着点ではない。  

ゆっくりと、確かに、 変化がおきてゆく。

 

恐怖が消えてゆくこと、 望みがかなっていくこと、 人間を愛すること、 優しい人になること。      

 

耳を澄ませよう。  

あなたの泣いている声は今は聞こえないけれど、 聞こえないなら耳を澄ませばいい。    

現世から、ほんの一時だけ身を外して。  

 

そうして、この夏を乗り越える命が ひとつでも増えるものならば。    

 

おまけ:優しい世界を作りたくて生まれたブログ

うつになって、私は「優しい世界」を作ることを夢見た。 だからここ、「うつカフェ」をオープンした。    

誰も傷つかない、優しい世界。

誰もが好きな時に憩うことができる世界。  

そんな場所が欲しかったし、求められていると思った。    

 

 

でも、うつになると外出するのは億劫。

だから、ネット上でオープンしました。

うつになったらネット見るでしょう?

ネットの世界なら誰でも好きに訪れられるし、気兼ねなく立ち去れるから。

まだ私にとっては開拓中の土地だけど、うつカフェのコンセプトはそこにある。

 

優しい世界。      

誰も誰かを傷つけない場所。

誰にも傷つけられない場所。

 

たこつぼの中のタコのように、そこに入ると「骨」とか「関節」とかが溶けてなくなるんです。  

だから、どんなに人と人が触れ合っても、 ぶつかって痛い思いをすることがない。    

 

そんな世界は無いかもしれない。

でも、せめて私だけでも、「タコ女」になりたかった。  

 

所詮は人間だから、思いも寄らぬぶつかり方をして傷つけてしまうことがあるかもしれない。

それなら、せめて、物腰、所作は柔らかにしよう。

そんな心がけでいたら、動的なことをするのが苦手になりました。

スピードが出るものとか、競い合うものとか。

強い力でしか動かせないものを動かすとか。

何かを傷つけてしまいそうで。    

 

自転車も、とてものろのろと走ります。 安全運転。

それでも一回こけて怪我してあごを縫っちゃったけどね。    

 

 

リアルでは、初対面では優しそうな顔立ちと言われます。

でも中身は?

私はそんなに優しくないと自覚している。

他人に対して淡白で、関心が薄い。

一皮むけば自分のことしか考えていない、しょうもない人間。

こんなんで優しい世界が作れるのか。

分からない。分からないからやってみよ。

そうして生まれたこのブログ。

 

あまり過激な表現はしていないつもりだけど、何かの記事に傷つくフレーズがあったらごめんなさい。

 

ぼろぼろな心を引っさげていた、あの頃の自分に捧げたいこのブログ。

 

ここ、うつカフェに逃げ込んでおいでよと言えるくらいの大きさ、または深さのある場所にしてみたい。

私の思考は垂直方向にどんどん落ちてゆく。

一緒に落ちて、しばらく出ていかなくてもいいよ。

現実は逃げないんだから。

もっとしっかり休もうよ。

 

 

眠れぬ夜に延々と読めるような。

絶望を忘れてしまうような。

そんな、現実と少しズレた、めくるめく世界がネット上にはある。

うつカフェもそのひとつになりたい。

 

そんな思いで生まれたうつカフェでした。

よろしくね。

 

このブログの運営者

生きづらさの解消方法・幸せに生きる考え方・うつ病の治し方をお伝えしています。
過去にうつ病になり、考え方を変えることで完治させた経験あり。

典型的なINFP人間。
モットーは「自分の幸せを第一に生きる」。
現在会社員をやりながらADHDの夫と暮らしています。

目次