女性らしさとは後天的に身につけるもの。女になることへの葛藤

生まれつき「女」である人は存在しなくて、

人は後天的に「女になる」ものだ。

 

女性に生まれついても、

生涯”女にはならない”人もいるかもしれない。

 

どっちが幸せかなんて、私にはわからない。

本人が居心地がいいように振る舞えば、それでいいと思っている。

何を選ぼうと自分次第だ。

 

 

私は、20歳を数年過ぎるまで、自分が女であることを受け入れられなかった。

または、自分が女であることに気が付かないふりをしていた。

 

うつ病を経験しなかったら、

もしかしたら死ぬまで気付こうとしないままだったかもしれない。

 

今では私は、ひとまず「女として生きる」ことを選んでいる。

 

目次

女と男が違う生き物だと知らなかった

ひとりの「人間」に「女」であることを自覚させるのは、他人の目である。

 

よっぽど脇目も振らずにがむしゃらに生きていない限り、

人は否応なしに「他人の目」に気がつく。

 

良くも悪くも

「ああ、私は”女性”と認識されている」

と。

 

 

それは、たとえばアフリカに日本人が行けば

「あ、アジア人だ」という目で見られるのと同じで、

 

ぱっと見て

「あ、女性だ」という目で見られるという、当然のことだ。

 

しかし私は長いこと、その「当然のこと」を受け入れられないでいた。

 

 

私は漠然と、「人間になりたい」と考えていたように思う。

「男」でも「女」でもない、ただの人間に。

 

私は自分の事を人間だとしか思っていないのに、

それを無理やり「男」「女」と分けるのは、とても不自然なことのような気がしていた。

 

だから、逆に人間でない何かになりたかったのかもしれない。

たとえば、クマの着ぐるみとか、そのへんの雑草とか。

 

 

 

でも、それは私が無知だったからだと分かった。

男性の興味関心、思考回路の傾向が女性のそれとはこれほどまでに違うとは、

私は知らなかったのである。

私は人間は皆同じようなものだと思っていたのだ。

 

 

男性たちは私が思いも寄らないものを欲し、

私の思考では処理しきれない行動を取る。

 

そして気付く。

ああ、私は彼らの住む世界を見ることが出来ないのだ、と。

 

 

 

自分が女性であることを受け入れられていないのに、

異性と男女の関係など築けるわけがない。

 

漠然と恋人がほしいと思っていた学生時代だったが、

それが叶わないのは必然の事だったのだ。

 

女として生きることは、選択だ

うつ病の治療を通して、

自分は本当は女になりたかったのだと気付き、

私は女になる道を選ぶことにした。

 

女になることは訓練である。

 

頭のてっぺんから爪先まで目を行き届かせること。

立ち居振る舞い。

話し方。

身の回りのこまごまとした持ち物。

 

指先と膝を揃えて電車の席に座ることが出来るようになった頃、

目を留めてくれる男性が現れた。

 

 

女の体に生まれたことは抗えなくても、選択していたい

女性になったということは、

将来子供を産むかもしれないということだ。

 

子供は欲しいと思う。

高校生ぐらいのときからそう思っていた。

でも、それも結局は、自然界の摂理によってそう思わされているだけなのかもしれない。

 

女性は、子を育てることを幸せに感じるように自然界の摂理によってインプットされている。

そうでなければ人間は絶滅しているだろう。

 

初潮を迎えたとき、私は自分の身体が「子を産む器」に過ぎないことを直感的に知った。

そしてその理解は、私がPMDD(生理前うつ)になったときに確信に変わった。

 

 

この器は、中身が精神力を失うと

「この個体は将来的にも子を成しえそうにない」と勝手に判断して、

持ち主の精神を病ませ、自死へと至らしめる。

 

「子孫を遺せないなら、女になれないなら、死ぬがいい」

と、自然界に言われている気がした。

PMDD=生理前にうつになる病気になって死にかけたときのこと

 

この体は所詮、「種の繁栄」という大いなる意志に操られていて、

その目的を前に絶望させられ、この世から消されてしまう。

うつ病は、子孫の繁栄を目指すという自然界の摂理の一部なのだ。

 

 

しかし、自然界の摂理が人間にとっての正解とは限らない。

子を成し得ないからといって絶望する必要は全くないし、幸せになる手段は他にも無限にある。

うつ病者は死すべき存在などでは決してなく、生きて救われるべきであり、完治して幸せに生きていくことができる。

 

 

それでも私の「自分の存在意義」の定義は「子を産むために生まれて来た器」であり、

そうとは知りながら、やはり私は子供を持つことが自分にとっての幸せなのだろうと感じてしまう。

 

親に孫の顔を見せてあげるのは「絶対善」であるような風潮は、自然界を映したものに過ぎないが、

だからこそ私にとっては無意識に願ってしまうことなのかもしれない。

 

 

「女の幸せは云々」なんて声は気にしていない。

ただ、自分を幸せにしようと思うだけだ。

 

そのために女になることを選んだし、

とりあえず、今の私は女になって後悔はしていない。

 

 

でも、いつか別の手段で幸せになろうと思えば別の道を選ぶだろう。

 

それに、時には女性らしさを減らすために髪をばっさり切ってみたりもする。

→女が髪をばっさり切るときは女度を無意識に減らしたいときだったりする

 

女であることに疲れた頃

女で居続けることに疲れてくることもある。

 

 

幸い20代後半にさしかかって、

若い女性が受けやすい「ショートケーキの上の苺」のような扱いを受けることも減ってきて、生きやすくなってきた。

 

だから私は、歳を取ることが嬉しい。

人間になっていくのだという感じがする。

 

 

 

私は女だが、その前に人間だ。

 

この世を二分する考え方は好きではない。

なぜなら見える世界が狭くなるから。

 

男でも女でもない部分が誰にでもあることを、忘れてはならないと思う。

 

 

目の前の現実をあるがままに見ると、

スーツを着た男性たちと、オフィスカジュアルの女性たちが

電車に座っている。

 

 

どちらかでなければならないものでもない。

本人がやりたいようにやれば良い。

 

私は女であることが幸せで居心地が良い。

 

誰に押し付けるわけでもないが、

一回何でもやってみればいいと思う。

嫌ならやめればいいし。

 

 

嫌なことっていうのは、だいたい酸っぱいブドウだから、

「女らしさなんて虫唾が走る!」なんて人も、

男も女も、その間の人も皆、

一度でいいから赤いドレスと口紅をつけて金色の埃が舞う中に立ってみればいい。

 

意外と楽しいよ。

 

 

女である時間は、生暖かくてどこかかなしくて良いもんだ。

 

決意した時点で引き受けるべきとされている色々なものを

責任を持って引き受けるもよし、

抗うもよし。

 

 

女というカードを手に入れた者は誰でも、

その時点で最大限、この世にその色を反射してしまうのだ。

 

 

それが、自分を含めた誰かの不幸を生まぬように、

少しでも何かを「良く」できるように、

 

それこそ頭のてっぺんからつま先までの言動に

注意を払っていたい。

 

生きる限り、訓練はいつまでも続く。

 

 

 

よく考えると、

女になる訓練というのは

人間としての訓練に他ならない。

 

 

それなら、

何も気後れする必要はない。

 

 

今私は、がむしゃらに人間力を鍛えているのだと。

 


 

経済的に自立することも女らしさになりつつあるよね→結婚できないのは男に経済的に頼る気満々だからよ。女たちよ自立せよ


 

このブログの運営者

生きづらさの解消方法・幸せに生きる考え方・うつ病の治し方をお伝えしています。
過去にうつ病になり、考え方を変えることで完治させた経験あり。

典型的なINFP人間。
モットーは「自分の幸せを第一に生きる」。
現在会社員をやりながらADHDの夫と暮らしています。

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