「うつ」の治療において、
「自分で自分を愛している状態」に達すると、最強の人間になります。
この世にこわいものはほとんどなくなります。
“うつ”が再発する可能性もほとんど消え去ります。
なぜか?
自分への愛を獲得すると、「自分が自分によって満たされる」ので、幸福感を自分で生み出し維持できるようになるからです。
そして、「足りないものはない。すべては自分の中にある」という感覚に目覚めます。
この世界に対しても、「満ち足りた、完全な世界」だと感じるようになるのです。
一度その幸福感・充足感を構築してしまえば、外界の刺激によって簡単に崩れることはありません。
なぜなら、自分の内面から沸き起こる感覚だから。
愛とか言うと胡散臭いかもしれませんが、
うつ病を治すには大切な概念です。
「自分からの愛」と「自分への愛」。
うつのときは、これらが欠けている状態です。
この愛を手に入れると、「うつを抜けた」という幸福感をひしひしと感じられるようになります。
しかし、どうすれば「自分への愛」を抱けるようになる(=「自分からの愛」を手に入れることができる)のでしょうか?
「自分への愛」を手に入れる方法・課程
「自分への愛」を手に入れる方法ですが、
「自分を愛そう!」と決意したって、すぐには愛せるようにはなりません。
ではどうすればいいのかというと、
「あたかも自分を愛しているかのように振舞ってみる」ことを続けるだけです。
「自分を愛そう!」と思っても出来ない理由は、「○○を愛する」というのは「私は悲しい」などと同じような「状態」を表す言葉だからです。
「私は走る」など、自分の意思で行う動きを表す言葉ではないのです。
「私はこれから悲しむんだ!」と決意したからといって悲しい気分になれるわけではありません。何かきっかけがあって自然と「悲しい」状態になったときに、初めて「私は悲しんでいる」という言葉を使います。
それと同じで、「私はこれから○○を愛すぞ!」と思って出来るものではありません。何かを愛している状態になったときに初めて「私は○○を愛している」と、その状態を表現します。
つまり「愛する」ことは、能動的にできるものではないのです。
そもそも「愛する」という動詞が存在することがちょっとおかしいと私は思っています。「愛おしい」なら形容詞だから分かるんですけどね。
だから、「自分を愛する」よりも「自分への愛を手に入れる」という表現の方がまだしっくりきます。
要するに、「自分を愛する」ことは自分の意志では出来ないものなので、
「自分で自分を愛している状態」まで何とかして辿り着く必要があるということです。
そこに手っ取り早く辿り着くには、「 あたかも自分を愛しているかのように振舞ってみる」のが一番です。
愛情というのはどうやって生まれますか?
まずは相手と接し、向き合うこと。
そして相手を思いやり、相手がそれに笑顔や喜びで応えてくれること。
自分が弱みを見せた時に、相手がそれを受け入れてくれること。
相手が弱みを見せてくれて、それを大きな心で包み込むこと。
自分の存在が相手に喜びを与え、相手の存在が自分に喜びを与えてくれること。
これを、「自分」に対して行うのです。
自分を心から愛してくれる恋人をまず想像します。
そして、自分がその恋人になりきってみるのです。
または、自分のすべてを愛で包んでくれる聖母のような存在を想像しても構いません。
私のすべてを心底愛してくれる人なら、私に何をしてくれるだろう?
私の幸せを一番に願ってくれる人なら、私に何て言うだろう?
自分なりにで構いません。
最愛の人のように自分を扱い、最愛に人にかけるような言葉を自分にかけてあげてください。
最初は本心ではなくとも、ぎこちなくても大丈夫です。
どろどろに甘やかして良いですし、思いっきり自分中心の世界に浸ったって良いです。
「我ながら気持ち悪い」と思ったって、あなたの心の中は誰にもばれません。
それを続けることで不安が減り、「安心感」や「幸福感」が芽生えるようになったら、成功しつつあります。
もし逆に胸のざわつきが大きくなるようなら、「自分が本当に望んでいること」をしてあげられていないということです。
その時は、もう少し内面を深く見つめてみる必要があります。
「本音」を抑圧してはいけません。
たとえ「誰々が妬ましい」「腹立たしい」「憎らしい」などの黒い本音であっても、まっすぐにその声を見つめ、聞き入れ、尊重しなければなりません。
「何が妬ましいの?」「何が気に入らないの?」と逃げずに自分と対話をし、本当に自分が欲しているものを見つけ、与えて(または嫌がっているものを取り除いて)あげなければなりません。
人間を丸ごと愛するとは、そういうことです。
こうして「あたかも自分を愛しているかのように振舞う」実験を続けていると、
「自分で自分を幸せにしてあげている」という「愛する側」の喜びと、
「自分が自分を幸せにしてくれる」という「愛される側」の両方の喜びを感じることができます。
そうしていつのまにか、自分の”心”を何よりも大切にして過ごすようになります。
「自分の心を守ってあげられるのは自分自身」「自分の心を守ってくれるのは自分自身」という責任感が芽生えるからです。
そんな日々が続いていくと、「自分で自分を愛している」という状態まで限りなく近づいていきます。
私には、「自分への愛を いつのまにか 手に入れていた」ということに気付く瞬間がありました。
「私は今、生まれて初めて自分の事を愛している…!」と自覚した瞬間でした。
このときの衝撃はすごかったです。
爆発的な喜びと幸福感と同時に、過去の自分への憐憫と謝罪の念が嵐のように襲ってきました。
そしてしばらく動けなくなりました。
自分を愛している状態とは、自分が自分によって満たされている状態
「自分への愛を獲得した状態」つまり「自分を愛している状態」とはどういうものか?
これは、最初にも述べたように、
「自分は自分によって満たされている」という感覚です。
そこには、他者の存在は必要ありません。
「他者によって愛される」ということの意味は、「その人と接しているときの自分(=つまり自分の”一部分”)が愛される」ということに過ぎません。
それに対して、自分に愛されるというのはスケールが違います。
「自分自身のすべて」が許され、慈しみを受け、尊重されるのです。
この無敵感と充足感ときたら、他人に愛されるときの比ではありません。
自分を愛するとは、自分で自分を満たし、最高の幸せを享受すること。
自分の丸裸の状態を――どうしようもなくだらしない面も、意地汚さや毒気のある面も――正面から見据え、その存在を許し、受け入れ、尊重すること。
どんな欲求も自分自身に聞き入れてもらえるという安心感。
自分は自分によってのみ成り立っているという自尊心。
「自分への愛」があれば十分だけど、他人からの愛だけでは不十分。
私たちは、「愛」をどこか、
「他人に与えるもの」
「他人から与えられるもの」
と思いがちです。
しかし、最も大切な愛、最も強力な愛とは「自分に与え、自分から与えられるもの」です。
そして、実は確固たる「自分への愛」があれば、他人からの愛は必要ないのです。
「愛されたい」「存在を認められたい」という思いが、自分によって100%満たされるからです。
逆に、他人に愛されることで心が100%が満足することは、絶対にありえません。
なぜなら、人は他人の内面を知ることができないので、他人の内面のすべてを愛することは不可能だからです。
他人は誰もあなたの本当の欲求を知りません。「あなたのすべて」を愛することのできる他人などこの世にはいないのです。
他人が愛せるのは、あなたの全体から見れば、あなたの表面的な一部分だけです。
しかし、人は他者から愛されることを切に望みます。
なぜなら、「確固たる自分への愛」を持ち続けることは、現実的には不可能に近いから。
誰しも自分に自信がなくなるときがあります。
自分の在り方に不安を覚える時もやってきます。
寂しくもなります。
怖いときもあります。
そんな風に人間らしく心が揺らいだ時に、本人の心中を思いやって「大丈夫だよ」と傍に居てくれる他者の存在が、どんなにありがたいことか。
だから、他人の愛なんて必要ない!とは言いません。
しかし、「自分への愛だけをあてにして生きる」のと、「他人からの愛だけを当てにして生きる」のを比べたら、
圧倒的に前者の方が幸せです。
なぜなら、自分の幸せが何であるかは、自分しか知り得ないから。
他人を愛する力をつけるには、自分を愛せる度量が必要
次に、”他人を愛する”ことについてです。
自分なんかより、他人を一番に愛して生きた方が幸せなのでは?
という意見があると思います。
しかし、そもそも「自分自身への愛」と「他人に対する愛」は、どっちが優先とかどっちが大きいなどと比較する対象ではありません。
むしろ私は、両者のエネルギーは比例する(どちらかが増大すればもう片方も大きくなる)と思っています。
自分への愛というのは、自分の内面で完結し、内面にエネルギーを沸かせるものです。
一方で、他者への愛というのは、自分の内面のエネルギーとか情熱みたいなものが外界に向くということです。
つまり、自分を愛して内面のエネルギーを高めた方が、他者を愛する熱量もそれだけ大きくなるというわけです。完全に抽象論ですが。
とにかく、自分自身を愛したからと言って、その分他人への愛が小さくなるわけではないのです。
むしろ、自分を愛すると「人の愛し方」や「人から愛されることがどういうことか」が分かって来るので、他人の愛し方もよく分かってきます。
あと正直に言うと、「自分なんか愛したくない。誰かを愛していたい」ということは、「人間の中のネガティブな部分は愛したくない」というのと同義です。
そんな人には、人間を丸ごと愛することなどできません。
他人を愛するって難しいですよ。
自分の予想や期待通りになんて絶対に動いてくれませんから。
だから、「他人を愛したい」という思いの強い人は、他人を愛する力をつけるためにも、まずは自分を愛する器を身に着けましょう。
「自分のことなんてどうでもいい、他人だけ愛していよう」というスタンスは、「楽」なので、陥りがちなのです。
他人のことは表面的にしか見えないから、人間の心の奥底のドロドロしたものと見つめ合わなくて済むからです。
しかし、自分を愛そうとすると、自分のネガティブな面も直視しないといけないので、骨が折れます。
楽して得られるものよりも、そうやってネガティブな部分も引き受けて得るものの方が収穫は大きいのです。
自分への愛を手に入れたことに気付いた瞬、ぼろぼろだった自分が見えた
前述しましたが、
私には、「自分への愛」を手に入れたことに気付く瞬間がありました。
その瞬間、自分がいかに今まで自分を“いじめて”きたかを実感したのです。
うつになるまでは、私は「頑張る自分が好き」で「頑張らない自分は嫌い」でした。
誰よりも勉強し、練習し、常に頑張っていないと自分の価値を認められませんでした。
自分が頑張れていないとき、私は自分をいじめました。
部活の練習もダイエットも受験勉強も。
少しでも怠ければ自分を罵倒しました。
弱者。
怠惰。
無能。
時には、思い通りにできない自分の身体を殴ることもありました。
もはや虐待の域です。
そんな性格で生きてきて、大学に入ってから私の心は壊れ始めました。
「頑張ろうとすること」自体に疲れてしまい、それが「うつ」となって現れました。
私がうつになったのは、自分を虐待してきたつけなのかもしれません。
自分への愛に気がついたのは、
ちょうど自分で幸福感を作り出す実験がうまくいっていて、気持ちがとても穏やかに幸せになっていた頃でした。
引き金は、「自分への愛があればいい」みたいな文章をネット上で読んだことでした。
自分の中に、愛すべき自分がいる。
私はそのとき初めて「内なる自分」の姿を見ました。
いじめられ、罵倒され、声をあげることも抑圧されてきた小さな少女。
彼女はぼろぼろで醜く傷ついていました。
そのぼろ切れのような子が、私が愛さなければならなかった少女の姿でした。
私は彼女を見た瞬間、自分のしてきた罪の重さに気付いて激しく泣きました。
ごめん、ごめんなさいと、彼女を抱きしめるようにして何度も何度も許しを乞いました。
果たして、彼女は私を許してくれました。
「わたしを愛してくれるの?」と、彼女はおずおずと私に問いかけました。
彼女は、私に優しく抱きしめられることなど初めてだったのです。
私は、命の限り誰よりも愛すると誓いました。
彼女から伝わってくるはち切れんばかりの喜びが、私が彼女をいかにないがしろにしてきたかを物語っていました。
彼女はそれからというもの、
私の大きな愛を一身に受けて、精神的に一気に成長しました。
当時は14歳ぐらいの印象だったのですが、今や私との境界はなくなり、私というひとつの存在になりました。
愛することは、バラバラに引き裂かれていた自分がひとつに統合されること。
愛されたい欲求と、精神的に虐待される苦しみという、二つの問題を同時に叶えること。
心を健康に保つには、自分を愛することが一番の薬なんですね。
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