死にたい夜に気を紛らわす方法。うつ病の苦しみの紛らわし方を紹介します

「死にたい」と願って願って、どうしようもなく苦しい時。

うつ病になれば、こういう最悪の時間が度々やってくることがあります。

別にうつ病でなくとも、ネガティブな思考から抜け出せなくなる夜がやってくることがあります。


こんなときは、とりあえず「考えない」で「気を紛らわす」のが一番です。


なぜなら、ネガティブモードに入ったときは、考えるだけ無駄だから。

 


 


考えなくていいのです。


「これから先のことを色々考えないといけないのに」

なんて、一切思わなくていいのです。


 


 


それじゃあ、気を紛らわす方法は何が良いかって?


条件はたったひとつ。

自分の心が傷つかない方法」であることです。

 


それでは、死にたいくらい辛い夜に、手っ取り早く気を紛らす方法を書いていきます。

実際にうつ病を治した私が実践して、死にたいという気持ちをやわらげるのに一番役だった方法です。

目次

「見ても傷つかない」と安心できる動画を見て気を紛らわす

私はうつ病の頃、


死にたくてたまらない夜中には、動画を見ていました。

できるだけ「思考」をしないですむようにです。

 


考えると「ああ、お先真っ暗だ。死ぬしかない」という結論に至ってしまうので、


動画を見て頭を空っぽにします。


 


好きな動画をイヤホンをしながら見ていると「思考」はあんまり出来なくなります。

それがいいのです。


 


 


動画は、「ブルーライトを浴びて余計に眠れなくなる」というデメリットはありますが、


「死にたい死にたい死にたい」と思い詰めるよりは何倍もマシです。

 

死にたくなるくらいなら、ブルーライト浴びましょう。

(できればナイトモードなど目に優しいように調整してくださいね。)

 

 

動画は、「気を紛らわす」には一番です。

なぜなら、聴覚・視覚・感情すべてが外部から刺激されて、現実逃避させてくれるから。

 

動画の内容のおすすめは、すでに視聴済で内容を把握しているものや、

「この動画の内容で自分が傷つくことはない」と分かっているものが良いです。


 


逆に、よく知らない配信者のYoutubeとかを見て、思いもよらず心にダメージを受ける言葉が飛び出し、胸に突き刺さる、みたいなリスクは取らないでください。

ネット上の掲示板を徘徊するのも絶対に避けた方がいいです。

なぜなら、あなたを傷つける言葉がどこかに転がっている可能性が高いから。




気の抜けた笑いが漏れるような、「人畜無害」と分かっている内容のものがおすすめです。




私は一時期はAmazonPrimeで「あたしンち」ばっかり見ていました。あの無害さがちょうどよかったです。




あとは、何年も前から見ているゲーム実況者さんの投稿動画など。

「この人の発言で傷つくことはない」と分かっていて、かつコメント欄も平和で民度が高い。

そんなお気に入りの動画投稿者さんがいれば、その動画をひたすら見るのもお勧めです。

心情を文字に書き起こす

あとは、ノートやチラシの裏に心境を書いてみること。


書くとちょっと冷静になるんですよね。


 


スマホに書くよりも、実際に紙に書く方が「吐き出している」感があって効果があります。


 


 


私の当時のノートも、今読み返すと闇深いことが書いてあります。

死ね 死ね 死ね と 頭の中を言葉が回っている。

 あらゆる思考の歪みから解放されて永眠したい。

 眠ったまま目覚めなかったらいいのに


とか、病んだ人のテンプレみたいな文章。

(まあこのノートは、このブログを書く上での良い資料になるので書いておいてよかったと思います。)

 

でもやっぱり、お気に入りの動画を眺める方が楽しいです。

だって動画を見たって見なくたって、どっちにせよどうせ眠れないんだから。



 …と開き直って、「自分の気持ちが楽」になる行動をしましょう。 

「死にたい」と思ってしまうときは、いっそ「死を心の支えにしてみる」

「死にたい」という気持ちは、一度こびりついてしまえば容易には消えません。

 

「死」が唯一の逃げ道ならば、

いっそ「死ぬこと」を心の支えにして、気を紛らせましょう。

 

つまり、

「”今”死にたい」と考えるのではなく、

「私はいつか必ず死ねるんだから、この苦しみは永遠には続かない」と考えてみる。

または

「死後の世界」を想像してみる。などです。

 

今無理に死のうとしなくても、人はいつか必ず死ぬことができる。

「人間はいつか必ず死ねる」という事実があります。

死にたいと思っていたとき、私はそれに救われました。

 

人間、何かを成し遂げるには何かしら頑張らなくちゃなりませんが、

唯一「死ぬこと」だけは、何も努力しなくても、寿命さえ来れば誰でも必ずできます

 

誰だって100%いつかは死ぬことができる。

これって素晴らしいでしょう。

こんなに優しい事実が他にあるでしょうか。

 

 

別に何も頑張らなくたって、私たちはいつか絶対に死ぬことができるんです。絶対に。

そう考えるたびに、私はものすごく安心しました。

 

――そっか、放っておいても死ねるんだ。

この苦しみも、どうせ死ぬときが来れば終わる。

じゃあ無理して「今」死ななくてもいいや。

「自然に」死ぬまで待っていよう。

 

そう思えたのです。

 

 

「死ぬために積極的に行動する」のって、しんどいでしょう。

死ぬのも簡単じゃないんです。

どうやったら確実に死ねるかとか、できるだけ苦しまない痛くない死に方は何だろうとか、できるだけ周りに迷惑かけない死に方ってなんだろうとか、調べるのも億劫でしょう。

わざわざしんどいときにしんどいこと、しなくていいじゃないですか。

気力もないし。

 

誰にでも必ず死は訪れる。

そう思うと、この世は本当に優しい世界だと思います。

 

死にたいときは、死後の世界で安らかに眠ることを想像する 

死後の世界や死神のイメージは人それぞれですが、

できれば平穏で、静謐とした世界をイメージしましょう。

 

それらは恐ろしいものではなく、清純で安らかな安寧の場所なのです。


そこでぬくぬくと眠る図を想像すると、少し心が穏やかになります。

「死にたい」と願う者にとって、死は恐怖の対象ではありません。

憧れの対象になります。

 

うつの頃、私は「死神」の姿をよく想像しました。

いえ、想像するというよりも、自然とその姿が頭に浮かんできたのです。



私の思い描く死神は、よくある鎌を持った黒ずくめの格好ではなく、

純白の服を着て、菩薩のように微笑んだ、優しい表情をしていました。

 

その死神は、静かに私達を待っているのです。

急かすでもなく、拒むでもなく。

誰のことも平等に。



私はその「死神」に祈っていました。


早くあなたのもとに行かせてください。

願わくば私を連れて行ってください。

 

 

でも、死神はただ待つばかりで、私の手を引いていってはくれません。

 

次第に私は、

「いつかは必ずあの人のもとに行けるのだから、

わざわざしんどい思いして死ななくてもいいか。」

と思い直しました。

 


 


さっきも言った通り、

死ぬのって、何かしら行動が必要になるので、やろうと思うとしんどいんですよね。

死ぬ瞬間の苦痛が、今の苦しみよりもましとは限りませんしね。

 

 

だから、うつのときは、「自殺する」よりも「ただ息をして生きておく」方が、基本的には楽なのです。

(もちろん、息をしているだけでもじゅうぶん苦しいのですが…。)

 

 

私は「死ぬ」ことに憧れ続けてはいても、

面倒で気力がなかったので、実際に自殺の計画を立てるようなことはしませんでした。

 

実際に自殺さえしなければ、

死にたいときは「死」を拠り所に生きたっていいと思います。

そのほうが心穏やかに過ごせることもありますから。

 

 

ちなみに、私は思う死後の世界はこんな感じです。

 

薄明るい空の下で皆がすやすやと眠っています。

大きな白い、ふかふかした、楕円形のベッドの上で一人ずつ。

 

足元には色とりどりの花が咲き乱れ、

周囲には金色や銀色の木々が生えています。

 


そして、皆がのんびり眠っているベッドの間を、修学旅行の夜の見回りの先生のように死神が巡回しているのです。

人々が安らかに眠った顔を、時折覗き込みながら。


とても平和で、静かな世界。

そんなのをよく想像しました。

私はいつかあそこに行くのだなと思うと、とても救われる気分でした。

 

「死」を心の支えにしたっていいのです。

心の苦痛が和らぐなら、それは“療養”に役に立っているということです。

 

死にたいときは死んではいけないの?なぜ生きなければならないの?

そうは言っても、どうしても苦しい気持ちが離れないこともあります。



 

うつのとき、あまりに生きていることが苦しい夜は、

「なんでこんなに苦しんでまで生きてなきゃいけないの?」

「“もう生きなくていいよ”と誰かに言ってほしい」

という気持ちになります。

 

人は、いかに苦しいときでも生きていなければならないのだろうか?

これは、私がうつに苦しんでいたときにずっと考えていたことでした。



 (自殺をするのって悪いことなの?について突き詰めて考えた記事 → 自殺は駄目?自殺は悪いこと?「人はいかに苦しくても生きるべきか」に対する答え




そして、うつを抜け出してから「そんなの個人の自由だ」と答えを出しました。

 

 

「自殺はしないべき」という主義主張は、

例えば、

「絶対に大学には進学すべき」とか
「シーツは毎週洗うべき」とか
「朝ごはんにはバナナを食べるべき」などの

そういう「個人の勝手な主義・主張」と同類のものだと思うのです。

人によっては宗教などももちろん関わってきますが。

 

どんなときに何をしようが、生きようがどうしようが、

結局は本人の意志次第。

 

自殺しようがどうしようが、個人の勝手。

 

他人が「どうすべき」と押し付けるものではないのです。

 

 

私としては、

「うつの場合は、病気が“死にたい”と思わせているのだから、生きて病気を治すべき」

と思っています。

でもこれも私の勝手な意見です。

 

 

ただ、うつのときの苦しみは現実のものです。

「病気がそう思わせているんだよ」と言われたって、慰めにはなりません。

 

インフルエンザにかかった人に


「あなたの苦しみはウイルスのせいに過ぎないんだから気にすることないよ。大丈夫」

と言ったって、症状は全く楽にはならない。

しんどいのはしんどいのだから、何の救いにもならない。

それと一緒です。

 

(でも、もし本人がうつであるという自覚がないなら、「あなたの苦しみは病気のせいなんだよ」と知らせてあげることは重要です。)

 

 

うつの苦しみは現実のものだから、

「生きろ」と言われることは「苦しめ」と言われているのと同じです。

 

だから、「死にたいなんて言わないで!」という言葉は、うつ病の人にとっては「もっと苦しめ!」という意味にとらえられます。


 


(「死にたい」と言ったとき、どう答えてほしいか?について書いた記事 → 死にたいと言われたときに返すべき言葉【うつ病経験者より】

 


 

「もう生きるのやめてもいいよ」という言葉が一番の救いだったりするのです。

「もう苦しまなくていいよ」という意味になりますから。

 

 

でも、私は「生きるのやめていいよ」と言う気はありません。

うつの苦しみは解消できることを知ったからです。

うつ病こそ、幸せに生きる力を手に入れられるようになる転換期だと気付いたからです。

うつを直していく過程で、今まで以上に幸せになれると知っているからです。


 


 

だから、苦しくても、頑張って生きてほしいのです。

そして、うつの治療を受けてほしい。

 

死にたいほどの苦しみを転機に、人は変わることができます。

変わるチャンスなのです。

 

 

なぜなら、人が「変わる」ときというのは、

「これ以上悪くなりようがないくらい最悪」のとき、

つまり、「変わるか、死ぬかの二択を突き付けら、変わらざるを得ないとき」だから。

 

 


私は、もしもう一度生まれ変わっても

もう一度「うつ」になることを選ぶと思います。

それくらい、私は「うつ」を転機に生まれ変わり、幸せに生きる術を身に着けたのです。

 

 ……



 死にたい時に、どう気を紛らわすか。

 


それは、こういうとりとめもない記事を読むなどして、

ネガティブな思考を一旦停止させること。

 


 


何もしなくていいから、


罪悪感など感じないで、好きなことをしてください。


 


死にたいほど苦しいのに、生きているだけで、あなたはすごい。


えらすぎます。


 


 


だから好きなだけ、今はゆっくり休んでくださいね。



 


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このブログの運営者

生きづらさを解消し、幸せに生きる考え方・うつ病の治し方をお伝えしています。
過去にうつ病になり、自分の考え方を変えて完治させた経験があります。

MBTI診断でいう典型的なINFP人間。
モットーは「自分の幸せを第一に生きる」。
現在会社員をやりながらADHDの夫と暮らしています。

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