寂しくてたまらない時はどうしたらいいの?
ここで紹介するのは、寂しさを根本的に解消する方法である。
つまり「一人でも寂しくなりにくい性格に生まれ変わる方法」だ。
寂しくて何かに逃げてしまうことは、「自分以外の誰か(何か)に頼らないと幸せになれない」という、他者への依存でもある。
寂しくて苦しいときは、ここで書くようなメンタルの根本的な対処法を実践してみてほしい。
そうすれば幸福を他者に依存しなくなり、孤独はパラダイスとなる。
気を紛らわさない
軽度な寂しさなら、気を紛らわせていれば解消するかもしれない。
そういう場合はいくらでも「気晴らし」をしてもらって構わない。
でも、どうやっても寂しさが消えなくて、その寂しさを根っこから消し去りたいなら、気を紛らわす行動は無駄になる。
なぜなら、気を紛らわすことというのは、問題から目をそらすことだから。
「寂しさ」と「孤独」の本質は、人々を愛すること
寂しさとは何だろうか。
苦しいだけ、いい大人が寂しいだなんて情けなくて恥ずかしい感情だと思い込んでいないだろうか。
寂しさとは、「人恋しさ」である。
自分以外の人間を必要とし、彼らの価値に気づき、彼らの存在をいつも以上に大切に思えることである。
とすると、寂しさとは悪いものではないということになる。
普段は気づかなかった人々への愛情に浸る甘美な時間と言ってもいい。
本来、孤独になることは「人々を愛して生きるためには必要なこと」なのだ。
近すぎると人を愛せなくなる。
孤独になることは、人を愛すること。
だからスナフキンはいつもムーミンを置いて旅に出てしまう。
孤独になって思いを馳せることは、大切なものに気がつくための時間。
そんなときに人恋しいからと無闇に人と会いまくると、心の中に小さく灯った「人々への愛」が逆に掻き消されてしまう。
「あれ、何が大切なんだったっけ」と、他人のペースに心をかき乱されたまま歳をとっていく。
皆「寂しいことは苦しい」という面だけを見て、その苦しみからどうにか目をそらすことに躍起になり過ぎている。
そうして、自分の心は永遠に迷子になったまま。
寂しいことは、本来はどこか甘みを帯びて、「快」ですらあるものだ。
私はその感覚が嫌いではない。
寂しさを抑圧することの弊害
寂しさに苦しんでいるとき、人の心の中には二人の人間がいる。
「寂しさを感じている自分」と、「寂しさを消し去りたい自分」の二人である。
そのように”心が分裂しているとき”は、強い苦痛を生む。
だから、まずは分裂してしまった意思をひとつに統合することから始める必要がある。
寂しいと感じることを自分に許す
寂しいことは苦しい。胸を締め付ける痛みである。
しかし、寂しさを消し去ろうとすることは、さらなる苦しみを生む。
それは「自分自身に無視される苦しみ」である。
例えば、「ねえ、今寂しいんだ。どうしたらいいんだろう。助けて」と誰かに頼ったときに、
「は?寂しさなんかさっさと消し去れよ。寂しいなんて感情は必要ねえんだよ。」と相手に言われたらどうだろうか?
それと同じことを、あなたは自分にやってしまっているのだ。
自分で自分を抑えつけている。
だから、「寂しい」と感じている自分をまずは許してあげる必要がある。
「私は寂しいんだ。寂しくて寂しくてたまらないんだ。」ということに気付いてあげること。
そこにもう一人の自分がいることを思い描き、その子を見つめ、抱きしめるようなイメージをする。
そして、「寂しさを感じていいよ」と許してあげる。
…ここで「アホらしい」と思った人は、そこまでである。
もうひとりの自分なんてものは、確かに実在はしない。
しかし、この心の分裂は心の中で実際に起こっていることだ。二人の自分の統合は、心を癒やすことの必要な通過点であることを、どうか理解して頂きたいと思う。
しかし、寂しさを許すと言ったって、そう簡単にはいかないこともあるだろうと思う。
寂しさという負の感情に溺れるのが怖い人
寂しさという暗く悲しい感情の海に溺れてしまうことを、人は時に恐れる。
だから、寂しさに蓋をしようとする。できるだけ感じないように、目を背けようとする。
怖いから。未知だから。
特に男性の方が、感情に身を任せることへの恐怖心が強いかもしれない。
なぜなら、泣くことは恥ずかしい、女々しいこととして、感情を制御して生きていることが多いからだ。もちろんそんな女性もいるだろう。
やったことがないことを、人は恐れる。
寂しさと向き合い、受け入れ、その苦痛に身を浸すことを。悲しみのあまり泣くことを。
感情に振り回されることは格好悪い。未熟だ。
そんな惨めで格好悪い自分を嫌いになってしまうんじゃないか。
そのまま悲しみに沈んで抜け出せなくなるんじゃないか。
今よりもっと悪い精神状態に陥ってしまうんじゃないか。
そうやって、どうしても感情にブレーキをかけてしまう。
泣けることは強いこと
感情を慎重に制御している人を見ると、私は「脆いな」と感じてしまう。
泣かないことが強さではない。それは強さではなく、硬さだ。
硬いものは何かに衝突するとヒビが入る。人生、何にもぶつからずに生きるのは難しい。だから、いつかは割れてしまう。
私は、自分を律することを強さだとずっと思ってきた。自分の本当の感情を抑圧して「よりよい自分」に近づくために努力してきたつもりだった。
そしてうつ病になった。
そこにいたのは、自分自身の両手に押さえつけられて、泣きたいときにも泣けず、息もできなくなっている自分自身だった。
そうなる前に、どうか感情を抑圧することの脆さに気づいてほしい。
そして、寂しさを感じることを受け入れてほしい。
寂しさを感じることを許したときの感情の爆発
自分に許された「もう一人の自分」は、許されたことに安心すると、感情が爆発することがある。
今まで抑圧してきた苦しみを「全身で感じていいよ。私がそれを許容するから」という、自分自身という大きな器に出会ったことで、心から安心するのだ。
人が泣くのは、自分で自分の感情を許した時である。
そのとき、怒涛のような胸の痛みが襲うことがある。
それは、あなたが恐れていたものかもしれない。
寂しさという暗く悲しい感情の海に溺れてしまうことを、あなたは恐れていた。
だから、寂しさに蓋をしようとしていたのだ。
あなたに許されたもう一人のあなたは、ほとばしる悲しみのままに泣き伏せるかもしれない。
息ができなくなりそうなくらい、強い痛みが胸を襲うかもしれない。
むしろその方が良い。
すべての感情を爆発させる。
自分で自分に、それを許す。
それはあなたにしか出来ないことだから。
感情を表現することで、あなたとあなたはやっと統合されていく。
「寂しさを許し許された存在」へと。
とても悲しいはずなのに、とても苦しいはずなのに、心のどこか根っこの方が温かく溶けていくのを感じる。
「私、こんなに自分を傷つけてたの?」と驚くほどに。
それができたら、次のステップ。
自分が欲しいものを自分で与える
誰かにそばにいてほしい。
話を聞いてほしい。
温めてほしい。
抱きしめてほしい。
それらは全部、自分自身に対する願望の裏返し。
寂しいのは、「誰か」がそばにいないからじゃない。あなたがあなた自身の心の声を聞いていないから。
自分で自分を突き放す→他人に依存する という負のループ。
自分で自分を満たせている人は、さほど寂しさに苦しまない。誰にも幸せを依存しない。
なぜなら、自分自身がそばにいてくれるから。
心の声を聞いてくれるから。
望みを叶えてくれるから。
あなたの心の声は何を欲しているだろう。
「私の駄目なところを許してほしい」だろうか。
「私を価値ある人間だと感じさせてほしい」だろうか。
なら、自分でそう感じてしまえば良いのである。
「お前は駄目なとこあるけど、別にそれでもいいんだぜ」
「誰がなんと言おうと、あなたは生きてるだけで価値があるのよ」と。
その欲求を満たすのを他者の手に委ねてはならない。なぜなら、他人は絶対にあなたを心から満たしてくれることはないからである。
(自分を許す手順をくわしく:自分を許すことでうつが治り、幸福度が上がる)
自分を無視してしまうわけ
では、なぜ自分の声に耳を傾けられないのか?
それは、あなたが「良い(立派な)人間でありたいから」だ。
人の本音は、醜く未熟だ。
一人じゃいやだ。
もう頑張りたくない。音を上げたい。
あの人が羨ましい。妬ましい。
誰かに、自分のために傷ついてほしい。
自分で自分を守るのに疲れた。
自信がない。
自分には才能も魅力も知力もない。自分には価値がないのかも。
一人じゃどこに進めばいいかわからない。
虚しい。怖い。
そんな未熟で甘えた感情は無視したい。持っていないことにしたい。感じたくない。
だから自分を無視する。
自分を無視せず、欲しいものを与える
寂しさを本当に解決したいなら、一番「見たくない自分」を直視しなければならない。
見たくない自分を無視すれば、寂しさという傷は永遠に癒えず、色んなものに依存して生きることになる。
自分の本音を見てみよう。
ああ、俺は怖いのだ。私は疲れてるんだ。自分の価値に自信がないんだ。だから誰かに満たしてほしいんだ。
ずっとつらかったんだ。悲しかったんだ。
そこにいるのは、傷を負い震えながら縮こまっている、情けない自分の姿。目を背けたくなるような、誰にも見せたくないような、小さくて惨めたらしい姿である。
長年「自分」に無視され続けてきたせいで声も出せず、立ち上がる勇気も失った自分自身である。
その子はずっと、「自分」がこっちを向いてくれるのをひたむきに待っていたのだ。
その子を見つめてみよう。傷ついた姿だけど、その目にはまだ希望が宿っている。
その子の頭をなでてみよう。慣れないことをされて、不思議そうな顔をするかもしれない。
その子が甘いものが食べたいと言ったら、食べてあげる。
何もしたくないと言えば、何もしないでいてあげる。
行きたくない場所があるといったら、行かないでいてあげる。
まるで愛する恋人に対するように。
(これは想像以上に癒やされる。体験談→ぼっちクリスマスデートで心が癒えた話)
そうやって、地道に「自分自身からの信頼」を取り戻していくのが、寂しさを癒やす一番の近道である。
「私は私を傷つけない。」
この信頼感は、何にも勝る幸福である。
この感覚を身につければ、そうそう不幸に陥ることはない。
そうしているうちに、「何かを欲する自分」と「それを満たす自分」はひとつに統合されていく。
ようやくあなたはあなたという一人の人間になるのだ。
心を満たし、幸せでいるために他人は必要ない
幸せになるためには家族や友達や恋人が必要だ、と思っているのなら、それは間違いだ。
幸せになるには条件はいらない。
自分を包み込んでくれる自分さえ居ればいい。
「幸せに見られたい」だけなら、友達や家族や恋人が必要かもしれない。多くの人は孤独の幸福を知らないから。
問うべきは、「幸せに見られること」を幸せと同一視していないか、である。
本当は、幸せに見られる生き方をすることは、一番不幸になりやすい生き方だ。
なぜなら、一般的な幸せを幸せと感じる「一般的な人間」なんてこの世に一人も存在しないからである。
「幸せに見られる生き方」は「自分の本当の幸せ」とはどこかで乖離する。
それなのに、乏しい想像力で「友達がいることって、多分幸せなんだろうな」「恋人といる人は幸せなんだろうな」と思い込んで、一人でいる自分が寂しく見える。
本当は友達や恋人がいなくたって幸福に生きることができる。私は実感している。
(体験談:幸せな恋愛をする唯一の方法は、一人でも幸せでいられるようになること
友達はいない・作らない方が圧倒的に幸せ【人間関係の悩みがゼロになる】)
大事なのは、「幸せに先入観を持たない」ことだ。
「一人じゃ幸せにはなれない」という思い込みを捨てること。そして、「幸せに見られたい」という欲も捨てる覚悟を持つこと。
(常識は幸せになるには必要ないので捨てよう【自分になる方法】)
あなたはあなたというだけで完全なのだ。
何ひとつ欠けてはいない。
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