大人になって嬉しいこと。
それは、やりたくないことをやらなくていいことである。
学校では、やりたくないことを色々とやらされる。
やれ友達とグループを組めだの、ボール遊びをしろだの、給食は残すな、制服を守れ、
学校に来い、学校に来い、学校に来い、…
片や大人になったら?
自分の居場所は自分で選べるわ、
一人でいても誰も文句は言わないわ、
宿題もない、試験もない、授業もない(授業は好きだったので受けたいけど)、
服装自由、遊び方自由、お金の使い方自由、
人生が自由。
ああ、大人になるってすっごく楽。
嫌な仕事はやめればいいし、嫌な人とは近づかなければいい。
好きなものを好きなだけ食べていい。
私は年々自由になっていく。素晴らしく幸せだ。
やらなきゃというのは思い込み。やらなきゃならないことはそんなに無い
親には、子供に義務教育を受けさせる義務がある。
だから子供は教育を受けさせてもらえる(=受けさせられる。)
でも、それを終えれば本来、子は自由だ。
どこの高校に行こうが、就職しようが。
実際には経済的な制約などがありはするが。
やらなきゃならないことなんて、実はそんなにない。
友達を作れ?一人の方が幸せなのに。
大学受験?べつにやらなくたって死なないよ。
子供の世話?親やプロのベテラン勢に頼めばいい。
化粧?すっぴんで外見至上主義の日本社会に抗ってやれ。
やりたくないことをやらない
やりたいこと、やりたくないことが人と違う。
それはあなたが生きているということだ。
どう、私変わった人間でしょ?
と、ドヤ顔するぐらいで良いのである。
やりたくないことをやるそれで得するのは誰?
それで幸せになれるのですか。
いいえ、私の経験上、
それは自分自身を殺すことです。
「やりたいことだけやるなんて駄目だよ」と言う人は、「やりたいことだけをやって幸せになった経験がない人」だ。
だから、やりたいことだけやって幸せになんてなれるわけがないと思っている。
そんな価値観の狭い他人にあなたの人生を左右させていいんですか。
努力・向上・成長?
それって目的にするべきものですか?
生きる力の源って、もっと高次なレベルのものなんじゃないんですか?
やりたくないことでも頑張りなさい、克服しなさい、というのは、何か人生で大切なことの本質からズレている。と思う。
(私にとって大切なこととは、どれだけ多くの生きる喜びを感じて死ぬか、ということである。)
嫌なことをするために生きてるわけじゃない。
私なら、同じ有限の時間を過ごすなら好きなことに費やす。
やりたくないことを無理やり「やりたい」と思おうとしても、不可能だ。
別にやらないでいい、と自分に許しさえすれば、人生は180度回って喜びに満ち始める。
むしろ、人と違うところは、視点を変えれば必ず美点になるものだ。
欠点を消そうとすることは、長所を消そうと躍起になることなのである。
「皆と同じ感覚を持とう」「皆と同じことを万遍なくできるようになろう」なんて思わなくていい。
なぜなら、私はその思いのせいでうつ病になったから。
やりたいこと、楽しいことが人とは違った自分
小学生と中学生の頃、休み時間が嫌いだった。
特に長い昼休みが苦痛だった。
自分が「楽しい」「苦痛だ」と感じるポイントが他人とズレていることには、小学生の頃から気づいていた。
友達とゲームしたり外で遊んだりすることがあまり楽しくなく、
反対に、勉強とか試験とか掃除とか、部活のキツい筋トレとか、
皆が嫌がるようなことをするときはすごくワクワクした。
一緒に遊んで楽しいと感じるような友達がいなかったから、というのも大きな理由だが、
たとえ仲の良い友達がいても、皆と一緒に遊んで楽しめるとは限らなかった。
遊びとは、たいてい「勝負」だ。
じゃんけんにしろ、トランプにしろ、ドッジボールにしろ。
そして、勝負に必要なのは、「闘争心」「競争心」である。
闘争心のない人間は、遊びを楽しむことができない。
なぜなら、「勝ちたい」と思うことができないから。
他人の闘争本能に触れることは恐ろしい。
鬼ごっこの最中、必死に追いかけてくるクラスメイトの形相。
本気でドッジボールを当てに来る男子の、「あいつを仕留める」という野生獣みたいな目。
それを見てしまう瞬間が、私には怖かった。
そんなことは気にせずにただキャーキャーと楽し気に逃げ惑う女の子たち。
または、負けてたまるかと、男の子に負けぬ運動神経で溌溂とやり返す女の子たち。
私はそのどちらにも馴染めずに、「ああ、苦しい」と立ちすくむばかりだった。
遊び(勝負)の終盤、私は一歩引いたところで相手を冷静に観察する。
彼らの必死な、「勝ちたい!」という強い執念を前に、私はこう思った。
「なんでそんなに一生懸命になれるんだろう。他人を打ち負かして何が楽しいというのだろう。負けた相手が嫌な気持ちになるだけなのに。」
「そうだ。皆まだ子どもだから、これがただの遊びであることを忘れてしまっているんじゃないだろうか。負けたら死ぬ戦争だと思い込んでるんじゃないだろうか。」
というあり得ない想像さえした。
私には、本気で勝ちたい気持ちがない。
もし勝ってしまっても、心の底から喜ぶことができない。
「どうしよう。負かしてしまった。負けて悔しがっている相手が目の前にいる。」という事実が、心に重くのしかかるのだ。
逆に自分が負けた時は、ほっと胸を撫でおろす。
馬鹿みたいな考えだが、「よかった、勝った相手が喜んでる。幸せな人が増えて良いことだ。」と心底思っていた。
そんなに嫌なら遊ばなきゃ良いのに。教室に残っていればいいのに。
…学校はそんな自由な場じゃない。取り残されることはいじめの対象になること。
皆と一緒のふりをすることは死活問題。
臆病者?
変人?
それともただの馬鹿?
鬼ごっこを楽しむという、「人として当たり前」のことすらできない、無能な欠陥人間。
心のどこかで私をそう罵る声は、日に日に増していった。
「私は普通の遊びすら楽しめない、まともじゃない人間だ」
といった低い自己評価の積み重ねが、いつしかうつ病に繋がっていった。
死にたい。死にたい。死にたい。
毎日のようにそんな声が聞こえてきた。
自分で自分を否定し続けることは、文字通り自分を「殺して」いくことなのだ。
やりたくないことはやりたくないままでいい
今でも勝負をする遊びが苦手なのは変わっていない。
対戦系のゲームは一切しない。
ゲームセンターは、近づくだけで膝がすくむ。
球技もしない。
でも、対戦ゲームが苦手だからといって、鬼ごっこが苦手だからといって自分が欠陥人間だとは、もう思わない。
むしろ、闘争心のない人間が持つ美点に目を向け、それをどう活かせるかに意識を向けている。
遊ぶときも
「皆でゲームするの?私苦手だから見てるね」
と堂々と主張する。
それを許容してくれない人とは関わらなければいいだけ。
小学校時代に感じていた同調圧力はもう感じない。
それに意外と他人のやりたいことなんか誰も気にしていないのだ。
あの頃の自分も、「私やらない!」と意思表示できる子だったらちょっとは違ったのかもしれない。
最後に
もしあの頃の自分に会えたら、こう伝えたい。
鬼ごっこなんて、一生続くものじゃないよ。
だからやってみてもいいしやらなくてもいい。
でも、「やりたくない自分はおかしいんだ」とは思わないでね。
「鬼ごっこをするのが嫌だ」という自分の声をちゃんと聞いてあげて。
そして「嫌だ」と思う自分を許してあげて。認めてあげて。
そんなことを言ってくれる人がいたら、私は「うつ」にはならなかったのだろうか。
気づいたのは遅かったけど、後悔はしていない。
「やりたくないことをやっていたら心が駄目になるよ」ということを身をもって証明できたのだから。
おわり。
幸せになんかなりたくない人へ→自分の幸せを許す方法。私は幸せになってはいけない?
生き苦しいときは、自分にいろんなことを許していこう→「自分を許す」ことでうつが治り、幸福度が上がる。