友達がいないと不幸、というのは幻想である
突然だが、私は数年前うつになって友達全員と連絡を取るのをやめた。
そして、うつが治ったあとも音信不通のまま、彼らの輪の中から消えた。
なぜなら……
友達はいない方が幸せだと気付いたからです!!
ひとり最高ーーー!!!
みんなフィクションに影響され過ぎ
少年漫画でも映画でも、「友情」をものすごく神聖視して、
友情は人を救う!というストーリーを見ると、
「そんなんじゃ現実の人間は救えないぜ」と思ってしまう。
人の心を救うのはいつだって「自分自身」である。
他人は他人の心に手出しはできない。(他人に命を救われることはあるかもしれないけど。)
もし「○○のおかげで俺の心は救われた」というのなら、それ、そいつに依存してるだけだから。
「○○のおかげで、私は私を救うことができた」というなら分かる。
むしろ私は、トモダチというよく分からない他人をすっぱり切る方が、よっぽどすっきり幸せになれると思う。
「友達がなきゃ幸せじゃいられない」なんて考えはアホだし(私は身をもってそれが嘘だと知っているし)、
「友達がいない奴は変だ」とも思わない。
むしろ成熟した大人は基本的に孤独である。
いつも大勢の友達に囲まれてワイワイやってます!という人を見ると、私は微妙な気持ちになる。
「え、それ、大人として大丈夫?ちゃんと”自分”持ってる??」と言いたくなる。
孤独を知らない(知りたくない)人間は、中身が空っぽになっていく。
なぜなら、自分というものは自分一人との対話の中で生まれるものだからだ。
一人になること・孤独になることの大切さを説く作品がもっと増えないものか。
人間関係に縛られないってこんなに幸せなの?
私は、うつ病の療養ついでにSNSも全部やめました。そしたら、人間関係で悩む事なんて皆無になった。
めっちゃくちゃ快適。
めっちゃくちゃ自由。
こんな幸せがあるのなら、もっと早く孤独になっておくべきだった。
(幸せじゃない人は、SNSをやめるのをおすすめします:SNSをしない理由は、しない方が幸せだし自分の純度が上がるから)
友達を作ろうと努力してる人って、「幸せに見られたい」だけなんじゃないかとすら思う。
「恋に恋してる」のと同じで友情に執着しているのだ。
そもそも友情なんて自然と芽生えるものだし、意図的に作るものじゃない。
今の私はむしろ積極的に「他人と適度に距離を置く」ように努めている。
なぜなら、人間関係で悩みたくないから。
人生、他人に悩まされるほど暇じゃないから。
「親しくならなきゃ」「仲良くしなきゃ」なんて義務感は誰に対しても一切持たない。
ただ相手に興味が湧けば話しかけるし、そうでなければ別にしたくもない世間話はしない。
冷たい人間だって?ドライな人間だって?
それが、意外とそうは見られていないのだ。
「○○さんは優しいねー」と言われるくらいである。
小中高時代には、人間関係の悩みで頭の中がつねにパンパンだった。
それが今、社会人になって、一切ない。
頭の中が非常にスッキリしていて、やりたいことや大切なことが明確に見える。
これを精神的に自立(成熟)するというんじゃないかと思う。
人間関係をリセットしたって何の問題もなかった
2~3年おきに、私は人間関係をリセットしたくなる。
中学卒業後、高校卒業後、大学3年目の終わり。
大体卒業のタイミングで、私はことごとく人間関係をリセットしてきた。
最後のリセットは、大学時代にうつ病になったときで、そのときに全ての人と連絡を取るのをやめた。
当時は「友達に恨まれるんじゃないか」「嫌われるんじゃないか」と怖くて仕方がなかったが、結果、何も悪いことは起こらなかった。
それより友達がいない解放感はすごい。
ほとんどの悩みが消える。
メリットしかない。
もしかしたら目に見えないところで誰かが私を悪く言っているかもしれない。
でも聞こえてこないし、聞く気もない。
言いたいことがあるなら直接言いに来いっての。(そもそも嫌われるほどの関係になる人がほとんどいないけど。)
LINEもSNSも、何も繋がっていない。
何のストレスもない。幸せだ。
「自分」さえ自分の味方でいてくれたら、寂しさも感じない。満たされるような温かい幸福感だけがある。
他人の声に煩わされないので、自分が本当にやりたいことも色々見えてくる。友達と会うほど暇じゃなくなる。
(寂しさの対処法はこちら:寂しいときの根本的な対処法【寂しくならない性格に生まれ変わる】)
今の自分には、友達は別に「必要ない」のだ。
「人生において友達は必要!大切にしろ!」というのは幻想だった。
過去の思い出はそのままに
もちろん、私にも過去に大切な友達はいた。
高校生の時、受験勉強のし過ぎを心配してくれた友達や、一緒に海外旅行に行って語り合った友達。
「隣に○○がいてくれてよかった」と感謝してくれた友達。
私はその誰とも今は連絡を取っていない。
だからといってその思い出がどうでもいいわけじゃない。
むしろ宝物のように、私の心の奥の一番キラキラと輝いている宝石箱の中にしまいこんでいる。
だけど、それと「今も彼女たちと連絡を取る必要性」とは別物である。
今の私にとって大切な他人とは、家族だ。
家族の中で一番大切なのが、人生のパートナーであり同居中の彼。
それから、両親ときょうだいである。
でも、やっぱりこの世で一番大切にしなきゃならないのは「自分の心」である。
一度うつ病になって、私はそれを思い知った。自分の心を殺してしまっては全て終わりだと。
大切にすべきものを大切にしている限り、人は満たされている。
もちろん、無駄なストレスを感じることなく付き合える大切な友達がいるなら、その人まで切るべきだとは思わない。
でも人間関係に悩むくらいなら、悩まない程度の距離でいるべきだ。10年に一度だけ会うような友達でもいいんじゃないだろうか。
友達と過ごした時間は宝物のようになることもある。
それは知っている。
でも、惰性や義務感で友人関係を続けなくたっていい。
距離が近い他人の声ほど、自分の考え方に影響を与えてしまう。そして自分の本心が分からなくなってしまう。
生涯続く友達なんて、少年漫画の中だけの幻想。
「友達がいるのは幸せ」というのも、創作の中での幻想。
人は成長していくし、成熟した大人であれば人間関係は限られた人生の時間の中で選び抜いていった方が幸せになれる。そして大切にしたい人を幸せにできる。
友達を作ることは、少なくとも今の私は必要性を感じない。
それよりも、自分自身を自分の味方につけることの方が大切だ。
いつでも自分の傍に居るのは自分だけなのだから。
たとえ何百人の友達がいたとしても、
「自分自身」が自分の味方でいてくれなければ、幸せになんてなれない。
友達がどうこうより、自分を愛することの幸せに衝撃を受けた話 →自分を愛することで幸福度がカンストした
友達という他人の声にとらわれるよりも、自分の人生に責任を持つ
友達という存在はつくづく「枷」になるなぁ、と思う。
過去の自分を顧みても、「友達の生き方や言葉に縛られてたなあ」と思う。
当時は気付かなかったけど。
他人というのは、無意識に自分の価値観に侵食してくる。
友達を作らなければ、「自分」の純度が上がっていく。
もちろん友達がいても自分を貫けられたら良いのだけど、「知らず知らずに」影響を受けてしまうのが嫌で、私は孤独を選ぶ。
他人という雑音があると、
自分は本当は何がしたいのか、どうありたいのかが見えなくなって、何が幸せなのか、という選択肢が狭くなっていくこわさがある。
それが本当に見えなくなって、一度うつ病になったし。
だから、他人の意見に左右されることがなおさら怖い。
特に、SNSを見ると、胸がざわつく。
無意識に他人の価値観が自分に入り込んでくるようで。
自分という人間ですらろくでもないものなんだから、他人に深入りしてろくなことになるはずがない、とも思う。
自分のことは自分で大切にしなければどうしようもない。
友達同士で手を差し伸べるとか差し伸べられるとか、そういう漫画や小説の中の出来事っぽいものに全く現実味を感じられない。
「全部の問題は、その状況に甘んじてるあなたの責任でしょ?」
「あなたの状況を変えられるのはあなたしかいない、私には何もできませんよ。」とどこかで思っている節もある。
自分が人生に責任を負う代わりに、誰にも依存しないしさせない。誰であっても、自分の人生には自分で責任を持ってほしい。
自分が自分でいられるこの自由な感覚は最高だ。
誰にも思考を縛られない。
好きなだけ自分だけの答えを探す旅を続けられる。
それまではしばらく、自分を好きなように行動させてあげたい。
大人には友達なんていない。
「一生会わない人」
「時々会う人」
「よく会う人」
「会わないけど話をする人」
がいるだけだ。
そういう、グラデーションのゾーンを漂う考え方の方が、豊かで素敵な考え方だと、私には思える。
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