26歳も後半、
自分がどんどん母に似てくるのを感じる。
子供が生まれるなどして
もし自分が「母親」になったら、
ということを考えるようになった。
もしも子供ができたら心がけたいこと
その子がLGBTかもしれないし
もしも私に子供ができたなら、
女の子か男の子か、どっちの心を持って生まれてきても違和感のない名前をつけようと思う。
左利きかもしれないし
その子が左手を使うようになったら
仲間だねーと喜びたい。
台所に左利き用のフライ返しや包丁やレードル、ハサミも揃えて
右利きの家族に「どうだ、使いにくいだろう」とドヤ顔をして笑い合おう。
私の母は、私が左利きであることを引け目に思わずに生きられるように、
被害者意識や疎外感を抱くことのないように、
全身全霊を尽くしてくれた。
右利きへの矯正などあり得なかった。
私も、左利きへの差別(無いようでまだ残っているのである)には断固対抗しようと思う。
かつては左利きが障害者と言われていたこととか(→かつては「障害」と思われていた左利き)
目、耳、手足、頭脳、皆と違っていいじゃない
その子と目が合わなかったら
その子が向ける視線の先に私もじっと視線を注ごう。
その子が喋らなかったら、
私は表情の機微をその子から学ぼう。
その子の通信簿に「落ち着きがない」と書かれたら
私も落ち着く暇もないぐらいわくわくしながら生きよう。
(反発を覚悟で言うと、彼のADHDが遺伝してくれたらいいな、と思っている。→彼がADHDを打ち明けてくれたから付き合いました)
その子に手や足がなかったら、
私は手や足がある人間がいかに不完全であるかをその子に教わろう。
結論、どんな子でもいい
どんな子に生まれてきてもいい。
生きているものはそれだけで価値があると
私はそんな甘っちょろい考え方をしています。
(別に妊娠の予定はないけど。)
子育てするときは、直接的な言葉で愛を伝えたい
子供は親からの愛に敏感だ。
叱られてばかりだったり、コミュニケーションが不足していると
子供は「親に愛されていない」と思いこむ。
親がいくら
「愛してないわけないじゃない!こんなに大事に思っているのに!」と思っていても、
子供には歪んで伝わってしまうことがある。
私がそうだったから。
大学時代の一人暮らしの時期にうつになったときである。
怒られるのが怖くて、
私は実家からの連絡を恐れ、音信不通にしていた。
実際は怒られることなどなく、
むしろ「気づいてあげられなくてごめんね」と謝られたのだが、
あの日私は初めて「母の無条件の愛」を知ったのだ。
私のような勘の悪い娘に必要なのは、
駄目な娘にさせないための強い言葉の指導よりも
「何もかも駄目になっても母の愛は永久不滅だよ」というメッセージだ。
子供というのは馬鹿で、そんなことも言わないとわからないのだ。
母の無条件の愛は子供のエネルギーとなる。
一人で生きる力を与える。
何かあっても帰る場所、迎え入れてくれる場所があれば、
安心して家を出て行ける。
私が好きで生んだんだ
母親たるもの、子を生んだ責任がある。
「好きで生まれてきたんじゃない。
お母さんが勝手に私を生んだんでしょ。
生んでくれなんて頼んでない。」
反抗期に飛び出しがちなそんな言葉。
それに対する答えはもう用意してある。
「ええそうですよ。あなたを生みたいから私が勝手に生んだんです。
だからお母さんはあんたが何をしようが何を言おうが、
あんたが生きてるだけで大満足。
ああー生まれてきてくれて良かったな、生んでよかったな、といつも思ってる。
あんたを生んだからには、いつかあんたが自立できるようになるまで面倒見る。
だから安心して存分に反抗しなさい。」
いつも自分を第一に
今のうちから彼氏に言ってることは、
「赤ちゃんが生まれても、
2ヶ月に一回、私が美容院に行くための2時間は確保させてください」。
私が生みたいから生み、育てたいから育てる。
「我が子のために」「あんたのために」自分を犠牲にすることは、必ずしも子供を幸せにしない。
そういう気持ちはもちろん母親になると芽生えるだろうが、
子育てに対して「自己犠牲してる」という気持ちは持ちたくない。
なぜなら、
母親が自分のために自己犠牲していることは、
子供にとって幸せでもなんでもないからだ。
「あんたのためを思ってやってるのよ」という言葉は、
「あんたのせいで私は犠牲になってるのよ」という責め言葉である。
「知らんがな!頼んでへんわ!」とちゃぶ台返しされかねない展開になる。
「あんたのため?違うわ、
私がやりたくてやってるだけや。いいから早く寝なさい。」
子供を自分の人生の道連れにしたくはない。母ちゃんは母ちゃんでやりたいようにやる。
そうすることで、子供は子供でやりたいことを自分でやれる子になるんじゃなかろうか。
母は(ある程度)わがままであれ。
子の召使いではなく、一国を我が物にし、そしてその全責任を負う女王であれ。
成熟した女性は皆「母」になるに相応しく似てくる?
私が母に似てきたというよりも、
心が成熟してくると、
女性は皆似てくるのかもしれない。
自分自身の機嫌の取り方を知り、
家事のやり方、
仕事との向き合い方、
人生のパートナーとのかかわり方を知る。
そして最後に、家族の愛し方を知る。
愛ある関係の創り方を知る。
家族というのは、別に夫婦と子である必要はない。
男同士でも女同士でも、どっちでもない者同士でも、
血が繋がってなくても、
どちらかが既に他界していても、
人間とペットでも、
人間とロボットでも、
仕事が恋人でも、
国家が伴侶でも、
どんな形もありうる。
そうして、女性は「愛情」を生み出す「母」となる準備を整える。
そうして「母」となった女性から産み出されるものは、別に子供である必要はない。
仕事で価値あるものを生み出すでも良いし、関わる人間を育てていくことでも良い。
何か、この世界に繋がるものに貢献できるようになる。
私はいつか「母」になるのだろうと思う。
なりたいとかではなく、なる気がする、という予感がある。
子供のためなら体を八つ裂きにされようが構わない、というほどの強い愛を、
私の母が私に向けてくれた愛と同じ愛を、
私も我が子に注ぐようになるのだろうと思う。
もし子供を産んだとして、
生まれてきた子がどんな身体的特徴を持っていようが発達障害だろうが何だろうが、
私はいつか母が向けてくれた眼差しと同じ眼差しで
その子を見つめるのだろうと思う。
母はいつも、私と妹が横並びでご飯を食べるのを目を細めてみていた。
無心でエサを頬張る小動物を見るような(?)、「おお、食べとる食べとる」という、慈愛と満足感に満ちた目で。
子が生まれたときから、母はずっと同じ眼差しで子を見つめているのだ。
子を愛する幸せを、私の母は体現していた。
それを私は目の当たりに生きてきたから、
私にも子供ができたとき、どうやって愛せばいいのかがわかる。
母に感謝するべくは、
愛する幸せを見せてくれてありがとう。
生まれてきてよかった。
私は、私として生まれてきてよかった。
我が子がそう思ってくれるのなら、
子育ては成功である。
そして、私の母の子育ては大成功したようだ。